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ネット依存と人間関係のしがらみ

『メディアと日本人』より

クラウド・コンピューティング志向 5.3.1.2 ノウハウのまとめ

 表現欲求と同様、パソコン、携帯を問わず、ネット利用時間が長いほど、「あてはまる」という回答が多かった心理傾向に「いろいろな情報は、記憶していなくてもインターネットで探し出せれば十分だ」という質問によるものがある。

 暗算能力はかつては偉大な才能であった。しかし、計算機の普及で今やそれは一つの芸でしかない。知識の記憶力は、今でも知力を構成する大きな要素であるが、少なくとも学校を離れた社会生活の場では、昔ほど重要な能力ではなくなってきたように思われる。

 知識はあるに越したことはないが、今や携帯でも即座にネット経由で情報の海にアクセスできる。人の記憶には限度がある。わずかばかりの記憶量で他人との優位性を誇る時代は終焉を迎え、今はいかに早く目的とする情報にアクセスできるか、その種の情報を編集できるかが重要な社会的スキルである。

 「ネットで知識が検索できれば、自分の脳裡に知識をたくさんストックする必要がない」という考え方をここでは「クラウド・コンピューティング志向」と呼んでおく。「クラウド(雲)・コンピューティング」とは元来、ネットを通したコンピュータの利用、すなわち自分の手元にある情報処理端末をネットに接続し、ネットを通して諸ソフトウェアのサービスを享受することを意味する。ハードウェアの購入費や維持費、ソフトウェアの更新の手間を考えれば、今後、益々クラウド・コンピューティングの利用が盛んになっていくだろう。同時に、知識に関しても、「クラウド」から引き出すスキルが重要になってくる。

 クラウド・コンピューティング志向の有無によって、ネット利用時間を比較すると、PCでも携帯でもそうした志向があると答えた人ほどネットの利用時間が長い。ネットを高頻度で利用しているからこそ、実際にメリットを享受しており、クラウド・コンピューティング志向が高まっている。

あせりと強迫観念 3.5.3.2 つながる

 二〇一〇年の「日本人の情報行動調査」では、「まごまごしていると他人に追い越されそうだ、という不安を感じる」という人が一〇代で五一・二%、二〇代で三八・二%と他の年齢層より多く、また「いつもやらなければならないことに追われているように感じる」人も一〇代で五六・七%、二〇代で五八・三%いた。
いったい若い彼らはなぜそのように、何かをしなければいけないというあせりと、他人に負けそうという強迫観念に追われているのか。人とのつながりを求めて自ら好んでアクセスしつづけているSNSにもかかわらず、なぜそこでの人間関係に負担を感じなければいけないのか。負担ならやめればいいだけのことではないのか。

 現在の日本の経済状況だけでは、データが示すように、競争強迫観念が若年層においてとくに顕著なことなどを説明できない。

 つながりを求めて、あるいは日常的なつながりを確認するために、時々刻々とネットにメッセージを書き込み、友人の動静を探る。メッセージをやりとりし続けなければ、自分がのけ者にされるような不安を覚えるからだ。人に見つめられ続けていなければ、自分が空になってしまいそうな予感。そうした人間関係は、ある者にとっては、もはやオフラインでの人間関係よりむしろ煩わしい。しかし、既にそうした人間関係の網の中でしか自らを定義できない自分がいる。
多くの若者が、SNS、ミニブログの世界から、言いっぱなしが許されるTwitterに流れていく心理がわかるような気がする。
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歴史が変わるとは、もっと大雑把です

未唯へ。この歳で、これだけ頭を回すとは思っていなかった。

ブログの未唯空間の反映を本格化 7.5.2.3 ブログ

 かなり、緻密な作業をしているけど、先につながるかどうか見えていません。自分としては精一杯です。何しろ、全空間のハンドリングです。

奥さんへのメール 7.2.1.3 奥さんとの確執

 奥さんに、メールを送りました。「こしあん、いる?」「今、店の前を通り過ぎた」。無視するかと思ったら、なんと、返事が返ってきました。「今散歩から帰った。こしあんいる」というものでした。

 「戻って、3つゲット」それに対して、「ありがとう!」奥さんとのツイッターみたい。家では、相変わらずです。

 自分が食べるものにお金は使わない.その代わりに月曜日に家族に3人で500円分を買っていく。

 「存在の無」で踏ん切りがつきました。「存在の無」とは、自分自身も存在を認めないことです。そうすることで、自分を強くします。存在するから、面倒くさいのです。

「仁」に見る「歴史を変える」 4.7.1.1 2 意思を感じる

 観点は「歴史を変える」です。仁は歴史を変えるために送り込まれた。歴史を変えるは私の役割です。彼は行動したけど、私は考えるだけです。歴史において、行動には私ではない。だけど、一緒です。未来を見ているのです。そのために何をするか。

 それが合っていなかったら、「意思」が変えていくでしょう。仁は「神」と言っていた。そうでないと、私みたいなことを考える人間がここに居る理由がわからない。そして、こんなことをやれるタイミングに居るということです。認められてはいないけど

 バスに乗りながら、ワンセグウォークマンで教えてくれる時代です。変えられるはずです.このツールも含めて。ツールは進化したけど、人間はあまりにも変わらない。今こそ変わらないといけない。

 俺が来なかったら、これは起きなかった」という感覚はよくわかります。同じ感覚を持っています。明確に感じたのは、クライストチャーチの地震です。次に感じたのは3.11クライシスです。クライストチャーチは私の悲しみとどこかのイギリス人の願いが反映して、行くなという、信号が発生した。

歴史が変わると社会が変わるの差 4.8.4 新しい世界

 仁は歴史が変わるというけど、ペニシリンで何が変わるのか。社会が変わるのは分かるけど、それを歴史が変わると言えるのか。

 アレクサンドリアの数学者がケプラーの法則が成り立つことを証明したことで、歴史が変わるのか。かなりの化学反応を設定しないといけない。

 歴史が変わるということはどういうことなのか。それは戦争ではないでしょう。多分、構造です。では、世の中の構造はどう出来ているかは、人によって大きく異なります。

 例えば、ヒットラーで構造が変わりました。途中で暗殺されたら、構造が変わって、歴史が変わったといえるのか。

 未唯空間では、ローカルとグローバルの関係で見ている。ナチはThink Locally, Act Globallyと見ました。個人の思いが社会を支配する世界です。それに対抗しているのは、Think Globally, Act Locallyです。一応は民主主義です。そこに変わることで歴史が変わると見たいのです。

 先を見ている人なら、誰でも歴史を変えられます。ただし、歴史という認識がないと変えられません。
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