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オスマン帝国支配下のイラク

『イラクのキリスト教』より 十六世紀から二十世紀まで--オスマン支配のもとで

オスマン・トルコはモンゴルから小アジアにまで前線を進め、十四世紀初めには、指導者オスマンの名前をとった公国を作っていた。セルジューク・トルコを征服してから、オスマン人は急速に衰えるビザンツ帝国を犠牲にしながら勢力を広げていた。一四五三年にコンスタンティノポリスが陥落し、オスマン・トルコはハンガリーからイエメンまで、またアルジェリアからタブリーズにまで広がる帝国の建設に着手し、イスタンブール(前コンスタンティノポリス)を首都とした。

オスマンはスンニ派のイスラム教徒であって、自分たちを、ほかに匹敵する者のないイスラム指導者であるとし、スルタンを「アミール・アル・ムウミニーン(信徒たちの長)」と称した。スルタンは絶対独裁君主であり、その支配は神からゆだねられたものであって、神だけに責任を負うものと考えていた。

スンニ派のオスマンにとって、シーア派は単なる異端にとどまらず、イスラムのイメージを損なう脅威であるとすら考えた。そこで、小アジア東部に達していたシーア派サファヴィー朝との衝突は避けられなかった。オスマンは一五一四年アゼルバイジャンにおいてサファヴィーを破り、続く二年の間に、クルディスタンや北部メソポタミアに進出した。バグダッドは一五三四年に征服され一五四六年には、レジスタンスの中心であったバスラを含めイラク南部が敗れた。このときまでには、現在のイラク全土はオスマンの支配に置かれるようになっていた。

初期オスマン帝国支配では、イラクを四つの「ヴィラエト」と呼ばれる自治州に分けていた。バグダッド、モースル、シャーラズルとバスラの四つであり、それぞれに「パシャ」と呼ばれる地方高官が配置されていた。防衛の観点から、バグダッドは最も重要であった。そういうわけで、バググッドのパシャは最上級で「ワズィール(宰相)」と呼ばれていた。他の自治州はより身分の低いパシャによって治められていた。これによってバグダッドは他の自治州に対する支配権を行使することができた。またクルドの君主を任命したり廃位させたりすることもできた。後になると、ペルシアから常に脅かされ、クルド人支配者による反乱があったため、シャーラズルとバスラはバグダッドの直接行政区域に置かれるようになった。他方バグダッドにかなりの領土を割譲されたとはいうものの、モースルは引き続き独立した州であった。

モンゴル支配によってもたらされた破壊、トルクメンとサファヴィードによる不安定な支配に続く混乱とは対照的に、イラクのオスマン支配は、総体的に経済、社会発展に利益をもたらした。頻発する疫病、洪水、ベルシアと繰り返される戦いのために挫折はあったものの、次第に生産と貿易は増え、人口は増加し、都市は拡大した。しかし十九世紀になるまでは、教育や富の分配は満足とはいいがたい状態が続いた。十九世紀になって、オスマン帝国政府内の徹底的な改革、西洋世界との接触が決定的な効果を現しはじめた。

第一に、その地域がヨーロッパ主導の世界経済に次第に統合していくことによって、住民全体の経済状態が良くなったことである。一七二三年以来、東インド会社がバスラに永久貿易基地を置き、湾岸地域の主要な貿易機関となった。一八六九年にはスエズ運河が開通したことで、バスラにある東インド会社の重要性がさらに増し、イラクの経済が急速に発展した。交通手段の向上がそれに続き、一八六一年にバグダッドとバスラの間に汽船が通るようになり、バグダッドとイスタンブールの間に電信サービスが設けられた。

第二に、タンズィマートの導入が、イラク社会の行政内に大きな変化をもたらした。一九〇八年のイラク国会には、一七人の各地方からの代表が集まった。その中には、キリスト教徒が一人とユダヤ教徒が一人含まれていた。イスタンブールでは、オスマン帝国の他の地域代表が集まり、共通の問題に基づいた連帯感を見いだした。軍隊が組織され、イスタンブールのオスマン中央政府に忠誠を誓った。

第三に、教育が政府機関に勤めることのできるような人物を生み出し、自分たちの地域社会を変革する能力のある現地の知識人エリートを生み出すことになった。マザトーパシャは、タンズィマート時代の最も進歩的な人物で、一八六九年から一八七二年までバグダッド区の指導者であった。彼は公務員養成のための技術学校、中等教育学校を設立し、兵学校を二校設立したが、いずれも無料であった。彼は一八六九年には印刷所も建設した。一八九九年には女子のための中学校を作り、一九○○年には小学校教員師範学校を設立した。オスマン支配時代に設立された高等教育機関は法科大学だけであった。

宣教師も教育に貢献した。カトリック宣教会は十七世紀の前半にイラクに来ていた。最初に来たのがカプチン修道会士であり、続いてカルメル会修道士、ドミニコ会修道士がやってきた。カルメル会は、一七二一年にバグダッドに最初の小学校である聖ヨセフ小学校を開いた。ドミニコ会は、一七五〇年にやってくるとすぐに、モースルとその近郊の村々に小学校を開設した。彼らは一八六○年にイラクで最初の印刷所を設立した。フランスードミニコ会の修道女が一八七三年にモースルに到着すると、若い女性に裁縫や家事だけでなく読み書きを教えた。ユダヤ教徒も、イラクに最も早期の現代学校の一つを設立した。それは一八六五年、バグダッドに「世界ユダヤ教同盟」が建てたものである。教員は世界各国から集められ、ユダヤ人以外も学生として受け入れられた。

第四に、科学者と考古学者の派遣団により、イラクの隠れた財宝の探検が始まり、歴史理解に決定的な転換が起こった。アッシリアやバビロンの遺跡を発見し、樹形文字の解読が進むことで、イラクの古代史だけでなく、聖書関連事項や他の文明の起源についても、新たに大きな事実が明らかにされた。初期の考古学者の一人ヘンリー・レイヤード卿は、一八四五年にニネヴェを発掘したが、助手としてモースル出身のキリスト教徒ホルミズーラッサムを採用した。ラッサムは後に、彼自身考古学者になった。ナショナル・ジオグラフィックの社長エインズワース氏は、ユーフラテス川が航行するのに相応しいかどうかを探検するために派遣された。ホルミズ・ラッサムの兄弟イサ・ラッサムがその探検隊のエインズワース氏の通訳として働いた。

最後に、アラビア語が広まったことである。多くの本が出版され、また、ダマスカス、ベイルート、カイロなどにアラビア文学協会が生まれ、これが良い影響を与えた。特にエジプトやレバノンでのアラビア語復興に当たっては、キリスト教徒思想家が、その最前線で活躍した。政治的アラブ民族主義が生まれるずっと前から、文芸復興が始まっていたのである。イラクで、特に卓立している人物は、カルメル会修道士アナスタシウス(聖エリアのアナスタシウス・マリア)である。彼は一八六六年にバグダッドで生まれ、カルメル会司祭になった後、バグダッドに帰り、一九四七に亡くなるまで、その生涯のほとんどをそこで過ごし、バグダッドの古ラテン教会に葬られた。彼はアラビア語学者であり、少なくとも六二の論文を機関誌に掲載している。彼自身、「ルハト・アル・アラブ紙(アラブ人の言語)」を編集した。キリスト教徒、イスラム教徒を問わず、将来イラクの最前線で活躍した思想家、知識人たちが彼の夜学で学んだ。カイロのアラブ学士院は、一九三二年最初の学士院会員の一人として彼を選んだ。
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