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陸軍暴走の連鎖

『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』より

石原莞爾という「個性」

 満州事変は関東軍の石原莞爾という強烈な個性によって引き起こされました。満州事変の石原莞爾だけではなく、ノモンハン事件の辻政信にも似たようなところがある気がするのですが、強烈な個性を持った人が過激なビジョンを打ち立てて集団を引っ張ってしまうと、それに対抗できるビジョンやパワーがなかったら、権限だけでは立ち向かえません。それは、関東軍だけに限られた傾向ではなかったでしょう。もしかすると日本軍が抱えていた宿病のようなものかもしれません。

 石原も辻も、個性的で過激なタイプの軍人です。彼らの主張は、当時の「正論」で反駁しにくいものでしたし、ラディカルで、どことなく宗教的なにおいもしますから、いったん同調してしまうと、それが大きな運動量につながっていったのだろうと思います。もちろん、その「暴走」は上官である参謀長や軍司令官がとめれば済むはずですが、実際には権限だけではとめられなかったわけですから、よほどの数の同調者が周りにいたとしか思えません。

 部下がコンセンサスをつくってしまっていると、上司はなかなかとめられないんでしょうね。かわりに「これをやれ」という代案を持っていれば、まだいいのですが、同じような問題意識を持っていてはとめられない。それが関東軍という出先の機関であるだけに、ますますそうなったのでしょう。関乗軍は日本の国防の最先端で、強い使命感を持っている独特な軍事集団・軍事組織ですから、それだけ自分たちの思いといいますか、使命感が強い。だから、それを強く主張し、かつ過激な解決案を持っている人が出てくると、周囲はそれに同調してしまうのだと思います。そして出先の軍司令官や参謀長が、部下に突き上げられて動いてしまうと、東京の陸軍中央は、「あれだけの人たちが動いているのだから、それなりの理由があるのだろう」と思ってしまう。しかも軍中央の中堅クラスにも、出先軍と問題意識を共有し、過激な行動に同調する者が少なくありませんでした。

永田鉄山の誤算

 当時の陸軍には永田鉄山という非常に合理的な軍事官僚がいました。彼も陸士十六期でした。彼は、将来起こるであろう総力戦型の戦争に対応するための布石を平時から打っておかなければならないと考えていました。それは軍だけではできないので、政治家や官僚、実業家の理解・協力を得て、政治家の手によってシステムを変える必要がある、と。ところが永田は、その後、政治家に期待しているだけではだめだと考えるようになります。先述した政党政治の負の側面に失望したからでしょう。

 満州事変が起きたとき、永田鉄山は一夕会のメンバーで、陸軍省の軍事課長でした。永田にとって満州事変は誤算だったのではないでしょうか。あの時点で武力を発動し、満州国という傀儡国家をつくるところまで想定していた人は、中央には少なかったと思います。ゼロとは断言できませんが。新国家をつくるところまで考えていたとすると、それは当初の満蒙領有案を断念した石原を含む関東軍の幕僚たちだけでした。永田からすれば、いずれ武力を発動せざるを得ない時期が来るかもしれないが、それは国内外に日本の立場や言い分を理解させたうえで、「武力を発動しないと日本の権益が守れない。居留民の生命・財産を保持できないんだ」といえるような段階になってからだ、と考えたはずです。ただ、いったん事が起こってしまうと、なかなかノーとはいえない。武力発動に賛同した人たちも大半は権益擁護の行動だととらえ、それ以上のことを想定した人は少なかったのではないかと思います。

 石原にとって、満州事変は単なる権益擁護ではありません。日本外交のバックボーンであるワシントン体制をつぶすことによって外交政策を転換させ、さらに対外的な危機をつくり出すことによって、危機に対処し得るよう国家そのもののシステムを変えていこうというのが、彼の遠大なビジョンでした。そして、事変はものの見事に成功してしまいます。

 満州で事が起きると、武力発動はやむを得ないと思っていた人たちは、関来軍の行動に反対しない。権益擁護だと理解した人は、当然支持する。一九二〇年代にトラウマを感じていた軍人一般は、これで国民も軍の存在意義をよくわかってくれるだろうと、関乗軍に理解を示す、あるいは拍手を送る。当時のマスコミの論調も、満州での軍事行動については好意的で、これを支持します。陰影な社会に光明を示すというとらえ方が一部にあったほどでした。

荒木貞夫への期待と失望

 先述したように、少壮将校たちは、それまでの上層部に対して、抵抗と不満を感じていました。国内の総力戦体制構築や満蒙政策について、有効かつ具体的な政策を打ち出さない。遅滞している。彼らは、上層部が明治以来の長州閥の情実人事によって構成されているがゆえに、改革に消極的なのだと考え、「長閥打破」を主張します。具体的には、長州閥から冷や飯を食わされていた荒木貞夫や真崎甚三郎、林銑十郎という人たちをリーダーに担ごうとします。こういう人たちを軍のトップリーダーに据えたならば、彼らと思いを共有し、軍の改革や満州問題の解決にも、積極的にあたってくれるだろうという期待があったのです。

 一夕会は、軍中央の中堅クラスの要職にメンバーを張り付けるだけでなく、上層部にも彼らに同調してくれそうな高級将校を就任させるよう人事の布石を打っていたようです。こうして満州事変をきっかけにして、荒木貞夫をトップに据えようという動きが強くなり、当時の軍上層部もそうせざるを得ないと考えたのでしょう。荒木は統帥系統の軍人で、軍政の経験が少なかったのですが、関乗軍の独断専行や軍中央の下克上的な傾向を憂慮して首相に就任した犬養毅も、当初は、荒木が跳ね上がりの中堅分子をうまく抑えてくれると期待していたように思います。

 この後、陸軍では、荒木や真崎など皇道派と呼ばれるグループと、永田や東条英機など統制派と呼ばれるグループとの間で陰惨な派閥抗争が繰り広げられますが、実は荒木、真崎も永田、東条も、当初は陸軍の上層部に対するアンチエリート、批判層としての思いを共有し、また行動もともにしようという軍人たちでした。

 しかし、期待された荒木陸相は、永田を核とする中堅層の失望を買ってしまいます。荒木は陸軍の改革に必ずしも積極的ではなく、陸軍の要求を実現するうえでの政治的な能力にも見劣りがしました。しかも、荒木は自らの人脈で固める派閥人事を始めてしまいます。これによって皇道派と統制派との分裂が生じるわけです。荒木の行動は、新たな改革をしなければならないと考えていた中堅クラスの軍人にとっては、たまらないことだったと思いますね。改革のための人材登用を期待していたところに、必ずしも有能ではない、不遇感から「長閥」を批判してきただけのような人たちをすくい上げてしまった。それが荒木個人に対する、あるいは荒木を中心とした新上層部に対する大きな不満、批判の材料になっていったのです。

武藤章の変貌

 一九三九年、武藤章が陸軍省軍務局長になります。軍事官僚としての陸軍軍人の思考様式を考えるうえで、武藤は注目に値する人物です。関乗軍の参謀だったとき、武藤は、内蒙工作を抑制しようとして満州にやってきた参謀本部戦争指導課長の石原莞爾に対し、「貴方と同じことをやっているだけだ」と郷楡します。それは出先軍の幕僚としての言い分でした。その後、能力を買われて中央に戻り、参謀本部の作戦課長になりますが、そのとき盧溝橋事件が起こると、いわゆる拡大派に属し、一撃を加えて中国の屈服を勝ち取るべきだと、強硬論を唱えます。強硬論ではありましたが、政治的考慮をとり去り純軍事的な見地からすれば、全く軍事合理性に反した主張というわけでもありませんでした。もちろん、政治的考慮抜きの、きわめて限定的な合理性という意味ですが。

 それがいったん中国の戦場に出て、一九三九年に軍務局長になると、武藤の合理性の幅が広がります。中国との戦争が彼の予想に反して長期持久戦になってしまったことで、本来の敵であるソ連に対抗することができない。一方、ヨーロッパでは第二次世界大戦が始まりつつあり、そうした状況の変動に対する日本の国防の「弾撥力」(柔軟性)が確保できない。ならば中国との戦争はやめようと、武藤は考えたのです。

 作戦課長のときには、戦いをできるだけ短期に終わらせるためにはどうすればよいか、だけを考えました。政治的考慮があったとすれば、中国を屈服させて権益の拡張を図る、といったことだけだったでしょう。短期戦に持ち込めなかったときに、日本の政治や経済にどのような影響が出るか、という問題は彼の思考の範囲内にはなかった。これに対して、軍務局長になると、対ソ戦に備え、かつヨーロッパの激動に対応するために、どれくらいの能力を持っていなければならないのか、を考えなければならない。しかも、それを、予算を中心に考えなければなりません。そろばんをはじけば、中国との戦争で莫大な戦費を使っているときに、いまさら政府に対して、さらなる資金をよこせとはいえない。自ら捻出するしかない。そうなると、中国に派遣している兵力を引き揚げて、それを除隊、復員させる以外にないのです。こうして中国との戦争を縮小し、最終的には戦争はやめようという結論になる。このような意味で、武藤は合理性の幅を広げ、「成長」したのですが、軍務局長というポジションについたことで、過去の自分の失敗に気づいたのかもしれません。
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日本とイギリス (山口)
2020-10-31 05:58:59
陸軍が暴走した経過がよく分かりました。

現在EU離脱を巡ってイギリスが延々と議論をしています。
幕末から第二次世界大戦までの国家的意思決定において
日本とイギリスを比較するとイギリスがほぼ正しい選択を
してきたのに対して満州事変から敗戦直前の対ソ連交渉まで日本の選択の多くに疑問が残るのが残念です。

日本は重大な決定をするにあたって徹底的に議論することがありません。命令系統の規律もしばしば無視され、裁可なく軍隊を動かしても罰せられません。軍隊は天皇に直属し、内閣、国会はコントロールできません。

イギリスが首相直属の暗号解読組織を作り、ナチスの暗号を解読してドイツのイギリス侵略を防いだのと対照的です。陸軍、海軍、大学、民間から才能のある人材を集めた1万人を超える組織で戦後もその存在は極秘でした。そこで使われた機械がパソコンへ発展しました。

現在の日本がずるずると借金を重ねていたずらに金融緩和を続けているのを見ると、当時と大して変化がない気がします。

これからもこうした問題を追及してくださることを期待しています。
 
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