未唯への手紙
未唯への手紙
一九三〇年代日本を支配した空気 意思決定と民主主義
『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』より 一九三〇年代日本を支配した空気
--先のことを知っているからこそいえる部分もありますが、一九三三年から三六年までを見たときに、別の道があったのかもしれないということですね。結局あの道を選んでしまった最大の要因は何なのでしょう。
井上 軍部が何でも思いどおりにできるというわけではありませんでした。もちろん、国民国家ならどの国でも軍を持っていますから、そういった観点ではどの国も軍部のいいなりになり得るわけですが、日本が軍部に引きずられたように見えてしまうのは、政治体制を統合するはずの政党が、半分以上は自分たちの責任で、正しく統合主体になれなかったことが大きいですね。
軍部は軍事のプロフェッショナルではあっても政治はできません。既に高度に複雑な国家になっている日本の運営は政党にしかできない。政党にしかできないはずなのに、その政党が責任を果たさなかったのです。
政治体制や憲法体制の違いを超えて、政党がどう国民の意思を正確に定義し、それを実現するためにどう動いていくのか。その問題はいつの時代も同じで、かつてはより劇的なかたちで起きて、それが悲劇につながっていった。それはいまでも変わらなくて、民主党が政権をとりましたが、気がついたら自民党と同じようになっている。国民は民主党に何をやってもらいたいのか、はっきりしません。なのに、「政権につけば、どの政党だってやることは同じか」と見えてしまう。変わる余地は限られてはいるけれど、国民の意思をうまくつかんで、変えられるわずかなところをうまく変えて見せて、少しずつ民牛王義を進めていくのが政権政党の役割です。それは昭和戦前難もいまも原理的には同じなのです。
--歴史の反省を踏まえたとき、いまの日本の対外方針に関する意思・政策決定をどう思われますか。
井上 日本は、誰か特定の人がリーダーシップを発揮するということがありません。これは日本の政治文化なのかと思うほどです。政権につけば現実主義化して、誰がやっても同じように見える。あるいは諸外国からすれば、すぐ首相がかわると。確かにそのとおりですが、見方によっては「独裁者的なリーダーシップを発揮することは日本にはふさわしくない」と時代を超えて日本人は思っているのかもしれません。
このような日本の政治文化は、大衆民主主義が独裁者を擁護するというリスクを避けられるという点ではいいのかもしれません。しかし逆にいえば、意思決定せず問題を先送りしてやりすごすことができるのですから、それらが蓄積し、大きなツケを払わされることになる。リーダーシップを発揮して短期間に、それぞれの段階で、決断を下していけばよかったのに、先送りしていくうちに悪いものがたまって、それを清算する役割を担ったのが日米開戦でした。国民が日米開戦によって心理的に解放されたのは、アメリカと戦争すればすべて解決がっくと思えるくらいに、困難な問題が積み上がってしまったということでしょう。
同じようなことは、時代を超えて起こり得ます。いまの例でいえば財政問題がそれで、赤字国債を発行してもそれは自分の責任ではなく、「景気がよくなれば」と歴代政権で続けているうちに、とてつもない借金が積み上がってしまった。「いつか清算を迫られるだろうが、それは自分じゃないからいい」という態度が、日本国家のリスクを膨らませている。
イギリスは思い切った財政削減を行った。リスクを伴う選択ですが、一つの考え方だと思います。日本は、景気を刺激するのでもなければ思い切った財政削減をするでもない。どちらにしても、決断するべきですね。短期的にはさらに赤字国債が膨らむが、景気を刺激し、景気がよくなれば税収も増えて、結局は回収できるとなるのか、そうではなくて、いまは痛みを伴うかもしれないけれど、財政を大幅に削減して、失業者もふえるかもしれないけれど、ここで我慢すれば赤字を減らせるんだとなるのか。どちらかに決断すべきですが、戦前と同じで先送りする。あるいは両論併記で、自分が責任をとらない。それが日本政治の文化であるかのように繰り返されているのです。
話し合い民主主義は大切ですが、学級会民主主義ではだめで、集まって話せば決断ができるわけではなく、それを踏まえて誰かが自分の責任で決断を下さなければいけないのに、それをみんなが避ける。自己利益は確保したいけれど、返り血を浴びてまで決定を下そうという人は、いつの時代もいないですね。
--先のことを知っているからこそいえる部分もありますが、一九三三年から三六年までを見たときに、別の道があったのかもしれないということですね。結局あの道を選んでしまった最大の要因は何なのでしょう。
井上 軍部が何でも思いどおりにできるというわけではありませんでした。もちろん、国民国家ならどの国でも軍を持っていますから、そういった観点ではどの国も軍部のいいなりになり得るわけですが、日本が軍部に引きずられたように見えてしまうのは、政治体制を統合するはずの政党が、半分以上は自分たちの責任で、正しく統合主体になれなかったことが大きいですね。
軍部は軍事のプロフェッショナルではあっても政治はできません。既に高度に複雑な国家になっている日本の運営は政党にしかできない。政党にしかできないはずなのに、その政党が責任を果たさなかったのです。
政治体制や憲法体制の違いを超えて、政党がどう国民の意思を正確に定義し、それを実現するためにどう動いていくのか。その問題はいつの時代も同じで、かつてはより劇的なかたちで起きて、それが悲劇につながっていった。それはいまでも変わらなくて、民主党が政権をとりましたが、気がついたら自民党と同じようになっている。国民は民主党に何をやってもらいたいのか、はっきりしません。なのに、「政権につけば、どの政党だってやることは同じか」と見えてしまう。変わる余地は限られてはいるけれど、国民の意思をうまくつかんで、変えられるわずかなところをうまく変えて見せて、少しずつ民牛王義を進めていくのが政権政党の役割です。それは昭和戦前難もいまも原理的には同じなのです。
--歴史の反省を踏まえたとき、いまの日本の対外方針に関する意思・政策決定をどう思われますか。
井上 日本は、誰か特定の人がリーダーシップを発揮するということがありません。これは日本の政治文化なのかと思うほどです。政権につけば現実主義化して、誰がやっても同じように見える。あるいは諸外国からすれば、すぐ首相がかわると。確かにそのとおりですが、見方によっては「独裁者的なリーダーシップを発揮することは日本にはふさわしくない」と時代を超えて日本人は思っているのかもしれません。
このような日本の政治文化は、大衆民主主義が独裁者を擁護するというリスクを避けられるという点ではいいのかもしれません。しかし逆にいえば、意思決定せず問題を先送りしてやりすごすことができるのですから、それらが蓄積し、大きなツケを払わされることになる。リーダーシップを発揮して短期間に、それぞれの段階で、決断を下していけばよかったのに、先送りしていくうちに悪いものがたまって、それを清算する役割を担ったのが日米開戦でした。国民が日米開戦によって心理的に解放されたのは、アメリカと戦争すればすべて解決がっくと思えるくらいに、困難な問題が積み上がってしまったということでしょう。
同じようなことは、時代を超えて起こり得ます。いまの例でいえば財政問題がそれで、赤字国債を発行してもそれは自分の責任ではなく、「景気がよくなれば」と歴代政権で続けているうちに、とてつもない借金が積み上がってしまった。「いつか清算を迫られるだろうが、それは自分じゃないからいい」という態度が、日本国家のリスクを膨らませている。
イギリスは思い切った財政削減を行った。リスクを伴う選択ですが、一つの考え方だと思います。日本は、景気を刺激するのでもなければ思い切った財政削減をするでもない。どちらにしても、決断するべきですね。短期的にはさらに赤字国債が膨らむが、景気を刺激し、景気がよくなれば税収も増えて、結局は回収できるとなるのか、そうではなくて、いまは痛みを伴うかもしれないけれど、財政を大幅に削減して、失業者もふえるかもしれないけれど、ここで我慢すれば赤字を減らせるんだとなるのか。どちらかに決断すべきですが、戦前と同じで先送りする。あるいは両論併記で、自分が責任をとらない。それが日本政治の文化であるかのように繰り返されているのです。
話し合い民主主義は大切ですが、学級会民主主義ではだめで、集まって話せば決断ができるわけではなく、それを踏まえて誰かが自分の責任で決断を下さなければいけないのに、それをみんなが避ける。自己利益は確保したいけれど、返り血を浴びてまで決定を下そうという人は、いつの時代もいないですね。
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