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三酔人経綸問答

『三酔人経綸問答』より

「だいたい近年のヨーロッパの状況を考えますと、イギリス、フランス、ドイツ、口シアの四カ国がもっとも強く、いずれも文学にすぐれ、学術をきわめ、農業、工業、商業が盛んにして物資は豊富、陸には数千万の強い兵がいならび、海には数千隻の戦艦がつらなり、その強大堅固な軍備は、うずくまる龍がにらみをきかせ、かたわらの虎がとびかかろうとするようで、その盛んなことは前例をみないほどです。さてこのような強力な国力をうみだし、莫大な財力を築いた要因は何でしょうか。要因はさまざまあるとしても、要するに自由という原理がこの一大建築の基礎をなしたのです。

たとえばイギリスの繁栄と強大は、代々のすぐれた王にさかのぼれるとしても、一躍、多大の力をふるって奮闘したのは、チャールズ一世のときに自由の波濤がどうと湧き起こり、古い弊害である堤防を突きくずして、有名な権利の請願の実現をみたのでした。

またフランスでも、ルイ十四世のときに早くも強大な軍備を誇り、華麗な文芸を開花させて一世を風靡したとはいえ、それは専制国家という穴倉のなかにむらがり咲いた徒の花にすぎず、ほんとうに隆盛を確かなものにしたのは、あの一七八九年の大革命という偉業の成果にほかなりません。

またドイツでも、十八世紀に勇猛なプロイセン王フレデリック[フリードリヒ]二世が、武力で近隣諸国を圧倒して以来、次第に強大になってきたとはいえ、フランス革命の思想がいまだ移入されないうちは、国は分裂してばらけた薪のようでしたが、ナポレオン一世が共和国の指揮官となり、革命の旗をなびかせてウィーンやベルリンに遠征するに及んで、初めてドイツ国民は自由の空気を呼吸して友愛の滋液を飲みくだし、以来、情勢は一変、風俗は一新し、着々とこんにちの隆盛に至ったのです。

ロシアの場合には、国土が広く、その軍備の強大なことは世界第一とはいっても、文化や政治の面では他の三カ国に遠く及ばない。これは圧制の名残といわなければなりません。

人間社会のあらゆる事業は、たとえば酒のようなもので、自由とはちょうど酵母のようなものです。ワインでもビールでも、その素材がどれはどよくても、もし酵母というものがなければ、せっかくの素材もみな樽の底に沈殿して、アルコールの醸造されることはない。専制国家の事物はどれも酵母のない酒のようなもので、みな樽の底の沈殿物です。ためしに専制国家の文芸に目を通してごらんなさい。なかには見るべきものがあるにしても、こと細かに見るならば、千年たっても変化なく、万の作品を見ても同じようで、変化発展がみられない。作者の見聞する現象はどれも樽の底の沈殿物にすぎず、作者もまた沈殿した精神でそれを描写するだけ。変化発展がないのも当然です」(欄外にいわく。漢学先生、何か言い分は)

「ことによると、こう言う人がいるかもしれません。『国が富んで強いのは、財貨が豊富なためである。財貨が豊富なのは、学問が精緻なためである。なぜなら、物理学や化学、動物学や植物学、数学などの成果を取り入れて産業に応用することで、時間を節約し、体力をむだにせず、大量のすぐれた製品を生産できることは、手作業でこつこつ作るよりはるかに効率的である。これこそ国が富んで強い要因ではないか。国が富んで強ければ、すぐれた兵をもち、堅牢な戦艦をそなえ、争乱がおこれば敵国のすきをついて出兵し、僻地を開拓して耕地に変え、遠くアジア、アフリカの地を領有し、移民を送りこんで市場を設け、その地の産物を安く買い、自国の製品を高く売って莫大な利益を得る。工業がいよいよ盛んになり、販路がいよいよ拡大すれば、陸軍、海軍とも軍備はますます強大になってゆくのは自然の勢いである。国が富んで強いのは、自由の制度のためではないのだ』と。

ああ、これこそ、一を知って二を知らない者の言うことです。人間の行なう事業というのはどれも関連しあい、原因と結果は複雑にからまりあっているとはいえ、これを細かく考えれば、そこには真の原因があるのです。国が栄えて豊かなのは、学問の精緻なことが原因であり、学問の精緻なのは国が栄えて豊かなことが原因であり、このふたつは互いに原因となり結果となるのは言うまでもありません。しかしそもそも学問が精緻になることができたのは、要するに人々が知識に目ざめたためです。いったん知識に目ざめれば、学術の面で目がひらかれるだけでなく、社会制度の面でも目をひらかれるようになるのは、理の当然です。このためどの国でも、昔から学術の発達した時代は、かならず政治思想の盛んになった時期です。学術も政治思想も、ただ知識という一本の根から育った枝葉であり果実なのです。
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