食糧のたしにと庭に植えられたカボチャ。それを眺めている祖母を窓のガラス越しに見ているときだった。
目の前が真っ白に光った。祖母が玄関へ転げるように走った。窓の側へ来た祖母が「何じゃろうか」と言った。しばらくして鈍いがドドドと押し寄せるような振動、それにつれてガラスが小刻みに揺れ、ビビビィーという振動音を発した。
「新型爆弾が落ちた」という。それが「原子爆弾」と知ったのはいつだったか記憶にない。それなのに、66年前の新型爆弾が投下された我が家のことはしっかり記憶にある。5歳になる直前の出来事だ。我が家は広島からおよそ40キロ離れたとこにあった。
父はその日、公務で広島市へ同僚と自転車で向かった。原爆で被災され避難される人の波で、宮島あたりから自転車を押して広島へ向かったそうだ。被災した人、街の様子など目にした父は、その多く話さなぬまま50代半ばで亡くなった。入市被曝で交付された原爆手帳返却の時、亡くなるときの症状を詳細に尋ねられた。
限りなく、繰り返し言われてきた核兵器のない世界。その実現への途は糸ほども開けていない。先ほどから聞こえ始めた花火大会の音。つんざき震わせる音、そこには戦火に通じることがないことを知っているので怖さはない。原子核の炸裂音の無い世界を願いながら、ベランダから高く上がった虹の花を見た。
(写真:花火打ち上げの準備、左方に仕掛けなどが準備されている)
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