サムエル記第二 24章
昨日はこの夏一番の暑さ。仕事部屋はわが家で最も気温の高い場所で、一時台所に「避難」しました。夕食後にスーパーに西瓜を買いに行きました。暑い時には西瓜が一番ですね。あと数日30度越えが続くとの予報です。
サムエル記の最終章を読むと、ちょっと混乱します。1節は、再び主の怒りがイスラエルに対して燃え上がりということばから始まります。「再び」というのは、21−24章が交差構造であるのを踏まえるならば、21章1−14節の出来事を前提にしていると考えられます。
次に、主の怒りがイスラエルに対して燃え上がったのでダビデは人口を数えたのか、それともダビデが人口を数えたので主の怒りがイスラエルに対して燃え上がったのかという疑問もあります。
私は後者ではないかと考えます。しかし、主がイスラエルへの怒りを発せられたのでダビデはふと人口を数えることを思い立ったという可能性も残ります。並行記事の歴代誌第一、21章1節には「サタンがイスラエルに向かって立ち上がり、イスラエルの人口を数えるように、ダビデをそそのかした」と記します。
しかし、どちらかが事実ではないという結論は出せません。サタンは神の許しによって働くのですから、サムエル記、歴代誌とも矛盾した記述ではないのです。
さらなる疑問は、人口を数えることのどこが罪なのかということです。別の箇所では主ご自身が人口を数えよと命じておられます。ですから、人口を数えること事態が主の怒りを招いたのではなく、ダビデがこの時どのようないとで人口を数えよと命じたのかということに、主は目を留めておられるのです。
事実、人口調査の報告を聞いたダビデは、「良心のとがめを感じ」、「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました」と主に申し上げています。ここから、ダビデが悪しき動機で人口を数えたことが分かります。それは、高慢という罪です。
主の怒りにはさばきが伴います。ダビデは主の3つの提案のうちの一つを選び、王として大変に厳しい罰に甘んじなければなりませんでした。それは主ご自身が「もう十分だ」と言われるほどのものでした。
最後の部分には、21章の14節と同じことばが置かれています。罪の悔い改めの祈りが為されることに主は心を動かされたのです。本書が「イスラエルへの主の罰は終わった」で終わるのは、この書にふさわしいことなのだと思いました。