みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

神よ 私をお救いください

2024年07月25日 | 詩篇

詩篇 54篇

 7年間ほど愛用していたデバイスが、充電ができないために「眠って」しまいました。ちょうど良いタイミングだと思いました。ただ、電子ブックをどのように読むかは課題として残りますが……。しばらくの間は買わずにすごそうと思います。

 詩篇54篇は、昨日まで読んできたサムエル記第一とつながりがあることが、表題からわかります。本篇の背景は、サムエル記第一23章19節以降に記されています。いのちを狙うサウルの手から身を守るために逃げるダビデ。しかし、相手は主君サウル。自分たちの居場所を密告する者もいます。

 そのような境遇に自分が置かれたら…と考えつつ本篇を読み進めていきますと、追われる立場のダビデには、じつに強い味方がおられることが分かります。自分の力ではとても逃げ切ることができないところまで追い込まれてもなお、ダビデには「神よ あなたの御名によって 私をお救いください」と神に祈る道が残されているのです。

 「神よ 私をお救いください」から始まる本篇は、その終わりには「神がすべての苦難から私を救い出し 私の目が敵を平然と眺めるようになったからです」で終わります。この最後のことばを心に留めました。

 サムエル記第一23章には、映像的な描写があります。それは「サウルは山の一方の側を進み、ダビデとその部下は山のもう一方の側を進んだ。ダビデは急いでサウルから逃れようとした」という26節のことばです。ここでのダビデは、追い迫って来るサウルに捕らえられる直前でした。しかし、ペリシテ人が攻め込んで来たとの知らせにダビデは辛うじて助かるのです。

 そんな緊迫した状況と本篇の最後のことばを重ね合わせます。ダビデはそのような中にあっても、「敵を平然と眺めるようになった」のです。重い病にかかっていたとしても、どうすることもできないほど行き詰まっていたとしても、「神よ 私をお救いください」との一言は、そのような中にあっても「敵を平然と眺めるように」神がしてくださるという、みわざヘの入り口です。


王の死

2024年07月24日 | サムエル記第一

サムエル記第一 31章

 夕方外に出て、帰り道に夕立に遭いました。傘をさすかささないかという微妙な状況でしたが、家まであと50メートルというところでついに傘を開きました。夏の雨はむしろ気持ちが良いぐらいですね。

 ギルボア山はイスラエル中北部にあるイズレエル平原を見下ろす位置にあります。ここでのペリシテとの戦いの末に、サウル王、ヨナタン初め息子たち、道具持ち、部下たちが殺されたのです。

 その最期は、ずっと周辺諸国と戦いを交えてきた王にふさわしいものでした。3節に、「攻撃はサウルに集中し、射手たちが彼を狙い撃ちにした」とあります。これはサウルがイスラエルの王として逃げ隠れすることなく、ペリシテの激しい攻撃を受けて立ったことを語っています。サウルの気迫が敵の集中攻撃を招いたとも考えることができます。

 28章には、サウルが次の日に死ぬことを知らされたことが記されています。死を恐れる者であれば、王であることを放り投げて逃亡したことでしょう。しかし彼は、次の日に戦いの前線に立ったのです。そしていのちを落としました。

 サウルは、主の御声を聞き従うというイスラエルの王に求められている要件に適いませんでした。考えようによっては、サウルの戦死は王としての務めから解かれたのだとも言えます。

 数日前に、「サウルがかわいそう」という声を聞きました。サウルはダビデのいのちをつけ狙う悪人であり、正義はダビデにあると考えがちです。しかし、サウルについて読み進めるなかで、サウルのもろさは私たちのもろさであることにどこかで気づいているので、「かわいそう」ということばが出てくるのだと思います。

 しかし、それでもサウルの姿は私たちに警告を与えます。それは、神のことばに聞き従うこと、罪を犯したならば悔い改めるということです。神はそれを待っておられるのです。


自分の神

2024年07月23日 | サムエル記第一

サムエル記第一 30章

 学年末が終わっての夏休み。すると地下鉄や道路の工事があちこちで始まります。日曜日、礼拝に来ようとする方々が、工事に妨げられて遠回りを強いられたり途中で断念したりしました。こちらでは、このようなことがよくあります。日本でも大動脈の新幹線がほぼ一日運休したとありましたね。

 この章には、ダビデが大変な苦境の中に投げ込まれたことと、その苦境をダビデがどのように乗り越えたのかが記されています。

 ダビデと一行は、ペリシテ軍には加わらずにユダとペリシテの境に位置するツィケラグに戻って来ました。そこで見たのは、留守の間にアマレク人によって町が焼き払われ、ダビデの妻も含めて一行の妻や子どもたちが連れ去られてしまうという惨状でした。

 4節には、ダビデを初めいっしょにいた者たちが声をあげて泣き、ついには泣き疲れてしまったとあります。前章でペリシテの軍隊から離脱できたことは、ダビデたちにとっては大きな希望であり、これでツィケラグに置いてきた家族とともに次の計画を思い描いていたに違いありません。

 しかし、彼らが見たものは希望を打ち砕きました。神が自分たちの窮地を救い出してくださり、これから先に歩むべき道を開いてくださったとの思いで戻って来た矢先の出来事でしたので、絶望したのです。

 さらに、ダビデにとってこのことは、自分のいのちが奪われるという危機でもあったのです。

 6節は3つの文章から成ります。最初はダビデが大変な苦境にさらされたこと、次は、兵がみな……ダビデを打ち殺そうと言い出したこと、そして3つ目はダビデが自分の神、主によって奮い立ったことです。一つの節の中に大きな変化が見られるのです。

 鍵は、ダビデが自分の神、主によって奮い立ったということ。「自分の神」ということばが心に留まりました。「自分たちの神」でなくて「自分の神」と言える関係をダビデは神との間で持っていました。

 そして私たちも、イエス・キリストによって同じ関係を持たせてもらっているのです。この事実は大きい! のです。


窮地を脱する道

2024年07月22日 | サムエル記第一

サムエル記第一 29章

 日曜日に、「ボードゲームイベント」に参加しました。「まちころ」「Uno」「ラビリンス」など多くのゲームを持参してくれた主催者の皆さんに感謝します。「Uno」をしていた時にはそれほど頭を使うという感じはなかったのですが、「ラビリンス」はよく考えますので、頭が迷宮……のようでした。

 28章1−2節には、ダビデがペリシテのガテの王アキシュから護衛に任命されたことが書かれているのです。これはダビデにとっては大きな危機でした。サウル王にいのちを狙われるかわりに、今度は敵軍の一員としてサウルたちと戦わなければならない瀬戸際に立たされていました。

 しかし、このことの結果はすぐには記されず、この章で明らかにされます。ダビデとその一行がアキシュの護衛としてイスラエルとの戦いに出るのを、他のペリシテの領主たちがこぞって反対したのです。

 そのために、アキシュのほうからダビデにいっしょに戦いには行かないでくれとの願いが出されたのです。それで、ダビデと一行はイズレエル平原でのサウル王たちとの戦いに出陣することを免れるのです。

 油注がれた王サウルを決して私は手にかけることはない、手にかけてはならないとの姿勢を堅持していたダビデに、主があわれみの導きの手を延ばしてくださったのだと、ここを読んで思いました。

 自分の力ではどうにもこうにもならないところに追い込まれたとき、考えてもいなかった方向からの助けがあるということがあっただろうかと、ここを読んで思いました。

 11節に目が留まりました。ダビデとその部下は…ペリシテ人の地へ帰って行った。ペリシテ人はイズレエルへ上って行ったということばです。イスラエルのダビデがペリシテ人の地へ、ペリシテ人たちがイスラエルの地へというのは、神がなされた不思議ではなかったでしょうか。


欺きを重ねる

2024年07月20日 | サムエル記第一

サムエル記第一 27章

 月一度の昼食つき聖書の会、この頃はトラム(路面電車)数駅間を歩いて会場に向かうことにしています。歩道も整備されているのですが、街路樹の根元のあたりは敷き石がこんもりと盛り上がっているので、よそ見して歩いているとつまずきそうです。

 前章の終わりのことば、「ダビデは自分の道を行き、サウルは自分のところへ帰って行った」は、「私が間違っていた」というサウルのことばは真実なものではなかったことを証ししているようです。

 ダビデは、このまま自分がユダの荒野をサウルから逃げ通せるとは思わず、いつかサウルの手にかかって殺されると考えました。そのことは、神から王にするとの約束をいただき信じていたダビデにとってはジレンマだったのです。

 そこで自分に残されているのは、ペリシテの地に逃れること。あえて敵地に入ることでいのちが守られることだと考えたのです。しかし、これには大きな危険を伴います。

 7節に、ダビデがペリシテ人の地に住んでいた日数が1年4か月だったとあります。この期間は、彼にとっては常に自分との戦いではなかったのではないかと想像します。何よりも、彼はガテの王アキシュに欺き続けていなければなりません。アキシュのために働くというのは、具体的に自分の民族であるユダと戦いを交えるということでした。しかし、それは神が選ばれた民と戦うことを意味していました。そこでダビデがとったのは、ここでも偽りでした。

 主を恐れ、主のみこころに従おうとしているダビデが、自分のやり方をこれでいいとしていることはないはずです。でも、生き延びるためにできることはこれしかないと彼は考え、動きました。

 ダビデを、自分を偽り人を欺く悪い人間だと決めつけるのは、簡単かもしれません。しかし、事はそれほど単純ではありません。そのような中でさえ、恵みとあわれみに富む主に祈りすがる道が残されているのです。この真実が彼をどんなに支えたことでしょう。


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