みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

主のために

2021年11月24日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 14章1−12節

 火曜日の朝、冬タイヤへの交換をしてもらうためにいつもの整備工場へ。帰り道公園を通りましたら、素晴らしい景色が目の前に広がっていました。原っぱは霜で覆われて真っ白。そこに朝日が差し込んできらきらとイルミネーションのように輝いていました。

 14章前半でパウロは、互いに受け入れるようにとローマの教会に勧めています。理由は、神がそれぞれをキリストにあって受け入れてくださったから…。 この時のローマ教会には、なお律法の食べ物や祭りの日を守っていたクリスチャンがいたようです。しかし、律法を持たないいわゆる異邦人のクリスチャンもいました。律法の背景を持っていた人はそうでない人の「いいかげんな姿」にしかめっ面をしていたでしょうし、異邦人は律法をなお重んじて歩んでいる「かたっ苦しい姿」をバカにしていたかもしれません。

 しかし、クリスチャンならばそれぞれが「主のために」として行っていることであり、神に感謝して行っているのだから、互いにさばき合わないで受け入れ合うようにと、パウロは勧めているのです。ここからは、「主のために」、「神に感謝して行っている」というのが大切なことなのだと教えられます。

 人や物事を見る物差しが、いつの間にか自分の目盛りになっていることに気づかされます。


愛し合うことの借り

2021年11月23日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 13章

 日本からは初めての寒波到来のニュースが流れています。当地も、外に出たら寒さが身にしみました。でも、晩秋のこの冷たい空気、私は好きです。

 きょうの「みことばの光」は、13章11節以降に焦点を絞っていますが、この章では、「務め」あるいは「借り」ということばがキーワードのように読めました。

 1―7節でパウロは、世に遣わされたキリスト者がこの世の権威に従うべきだと言います。理由は、すべての権威は上によって立てられているから。「神に従うべきなので、速度制限には従わない」などというおかしな理屈は排除されます。税を納めることにおいてもこの原則が貫かれるのです。

 それとともに、この世の権威を神からゆだねられた者が「神のしもべ」であるという自覚を持たずに、自分(たち)の思いのままに人を動かし神の権威を踏みにじるようなことがあった時には、クリスチャンは信仰による良心をもって異を唱えることはありうるのです。

 8―10節では、互いに愛し合うことが勧められています。8節の「借り」ということばに目が留まります。考えてみたら、神の愛に私たちはどれほどのものをもってしても応え尽くすことはとてもできません。この書の初め、1章14節で、パウロは「私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のない人にも、負い目のある者です」と書きました。「負い目」は、以前の翻訳ですと「負債」とありました。確かに、「互いに愛し合う」は人間同士のやり取りですが、神の絶大な愛へのほんのわずかできる応答であるのですね。


偽りのない愛

2021年11月22日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 12章9−21節

 日曜日の礼拝、オンライン参加の方々とメッセージの分かち合いをしようとした途端に、ネットの接続が思わしくなくなってしまいました。楽しみにしていた皆さん、ごめんなさい。でも、オンライン配信のためにいろいろなコードで接続されていましたが、見直しの結果すっきりとしました。

 9節以降でパウロは、神がクリスチャンに与えられる愛の賜物について書いています。初めのことばは「愛には偽りがあってはなりません」。確かに、愛ということばの名のもとでの偽り、偽善は身近なことですし、自分自身の課題でもありますす。

 私は、パウロがここで偽りのない愛とは誰に対するもので、どのようなものなのかを書いているように思えました。

 まずクリスチャンの愛は兄弟、つまり同じ信仰をともにする人々に向けられるものであり、互いへの尊敬というかたちで表されます。相手を心から尊敬するということは難しいことで、そこに偽りも忍び込みます。

 またクリスチャンの愛は、私たちを愛する神へのものだということにも12節から気づかされます。このことばは、洗礼を受けた教会の牧師が誕生者に色紙に筆で書いてくださったものです。今改めてこのことばを読むと、神への偽りのない愛の勧めのように響いてきます。

 そして、愛は敵へと広がっていきます。自分への悪、悪意をどのように扱ったら良いのかという課題を伴って…。これは私たちがこの世にある限りの課題なのではないか、偽らず、逃げることなく、どのようにこの勧めと向き合うべきなのかという…。


その日は必ず…

2021年11月20日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 11章25−36節

 日本への荷物を送るために郵便局に行き、値段を確認しますと、中身よりも高額の郵送料にびっくりしました。速達便ですとさらに3割増とのことでしたので、通常のものにしました。届くといいな!

 「みことばの光」は11章を三回に分けて読んできましたが、その三回目。やがて異邦人の時が満ちるとイスラエルがみな救われるという驚くべき要約で、パウロは「イスラエル問題」をまとめています。イエスの時代から今に至るまで、イスラエルはキリストの福音に対して頑なな態度で居続けていますが、いつの日か、それは来るか来ないかが分からない日ではなく、必ず来るいつの日か、ここでパウロが書いていることばは実現します。どのようにそれが実現するのでしょうか、とても興味のあることです。

 この箇所には、前後関係を抜きにして取り出すことの多い、いくつかのことばがあります。29節の「神の賜物と召命は、取り消されることがないからです」、33節の「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう」、そして36節の「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです」がそれです。

 改めてここを読むと、よく知られていることばがどのような意味で用いられているのかを改めて考えさせてくれます。これらは、これほどまでも頑なに福音を拒み続けてきた者たちであったとしても、また、誰かが「あの人は無理だ」「救われない」と嘆くようなことがあったとしても、神はそんな人々を時が来たら救われるということを語っています。

 それは、私たちの近くにいる人々の救いについても適用できるのではないでしょうか。


いつくしみにとどまる

2021年11月19日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 11章11−24節

 注意して歩いてはいるのですが、時折犬の糞を踏んでしまうことがあります。こちらの人はきちんと始末すると言い切ることはできないということに気づくのは、そんなときです。人によるのです。

 11章の中盤でパウロは、イスラエル人はつまずいた、それで救いは異邦人に及んだ、そのことでイスラエル人にねたみが起こったと書いています。それならばと、パウロは続けるのです。私は何とかして同胞にねたみを起こさせて彼らの何人かでも救いたい…と。そして、やがて同胞を神が救われる日が来ることを彼は信じて疑うことがありません。

 この手紙を読んでいるのは、ローマの教会の人々。ローマ帝国の首都にありました。13節でパウロが書いているように、その教会を構成していた主要な人々は異邦人でした。もしかしたら、異邦人である彼らの中にはイスラエル人がイエスを、福音を拒み、自分たちが神の救いを得たことを誇り、拒んだイスラエル人を見下していた人々もいたのでしょう。彼は、このことを接ぎ木になぞらえています。たとえ枝が折られたとしても、幹があるからこそ接ぎ木はできるのです。

 このたとえは、異邦人の高ぶりを諌(いさ)めるためでした。異邦人が神の救いを賜ったのは、神のいつくしみによるものであり、異邦人が神の基準にかなった生き方をしていたということでは決してありません。だから、彼らは神のいつくしみにとどまり続けるべきなのです。


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