ヨブ記 25章
同労者とのリトリート、昨日午後はちょっとした山歩きをしました。往復1時間ほどで戻る予定でしたが、下りるべき道がことごとく閉鎖されていたために、上へ上へ。結局4キロ近く離れた場所にたどり着いたので、車で迎えに来ていただきました。
ヨブと友人との対話は第三ラウンド。二番目はビルダデです。しかし、三番目のツォファルは三ラウンド目は一言も発していませんので、この章のことばが友人たちの最後のことばです。ビルダデのことばが短いのは、ヨブとの対話に三人が行き詰まったことを表しているのかもしれません。
ここでビルダデは、二つの問いかけをしています。一つは、神の軍勢の数には限りがあるのだろうかということ。期待される答えは、「限りはない」です。2−3節のことばは神とともに歩もうとする者にとっては大きな励ましのことばであるはずなのですが、ビルダデはそのように伝えているのではありません。暗に、「ヨブよ、おまえのような者を神が顧みるはずがない」という突き放しているようです。
二つ目の問いかけは「人はどうして神の前に正しくあり得るだろうか」は、悔い改めを迫ることばとしてではなく、「ヨブよ、おまえは罪深いのだ」と断定しているのです。
6節のことばを読んで、「恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々、わたしがあなたを助ける」というイザヤ書43章14節を思い浮かべました。ビルダデは人間一般について「虫けらでしかない」と言っているようなのですが、実はヨブがそのような者だと断定しているのです。
神は高きにおられる方、人は虫けらのような者とするなら、全く望みはありません。しかし、神は「虫けらのヤコブ」と呼びかけるご自分の民を助けると約束しておられるのです。