みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

あわれみの器

2021年11月15日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 9章19―33節

 土曜日は,フランスのストラスブールでの最初の礼拝に参加しました。ここで新しいことが始まったとの思いを強くしました。ゆっくりと町歩きをしたいところでしたが「とんぼ返り」。

 9章後半は,問いかけのことばから始まります。「神は人をみこころのままにあわれみ,またみこころのままにかたくなにされる」ということばを受けての問いかけ,というよりも反論です。神が人をみこころのままになさるのだとしたら,神が人を責めるのはおかしいのではないかという疑問であり,反論なのです。

 この反論にパウロは受けて立ちます。神に造られたあなたがどうして神に言い返すのだと言うのです。神が形造った人間が,「神よ,どうして私をこのように造ったのですか」という権利はありません。神が決めたことに「それはおかしい!」と造られた人間は言えないのだというのです。

 パウロがここで,陶器師と陶器師が造った器の例を挙げていることに目が留まります。陶器師の比喩は,旧約聖書に用いられています。たとえば,エレミヤ書18章の初めには,神が預言者エレミヤに陶器師の家に行かせ,そこで陶器師が制作中の器を壊して気に入る器を形作っているのを見させるのです。そして神はエレミヤに,ご自分がこの陶器師のようにイスラエルにすることはできないだろうかと問われるのです。

 神はある器を壊し,ある器を残されます。そのようにする権利を持っておられるのです。具体的には,神がイスラエル人の心をかたくなにし,異邦人に福音を届けようとしておられる権利があるというのです。しかし注意すべきは,イスラエル人はすべてダメで異邦人なら大丈夫,ではないということです。

 「あわれみの器」ということばにも目が留まります。福音を聞いて信じ,救いを得た一人びとりは誰もが,神の「あわれみの器」だということなのです。キリストにある誰もが「あわれみの器」なのです。このことを忘れてはならないのです。


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