エゼキエル書 5章
エウセビオスの「教会史」を読んでいます。イエスの出現に始まりキリスト教が公認されるまでを記したもので、今は紀元100年代の殉教者たちの姿です。スミルナ(現在のトルコ、イズミール)の教会指導者だったポリュカルポスの壮絶で高尚な最期に引き込まれます。
5章でも、エゼキエルの不思議な行動が続きます。神はエゼキエルに髪の毛とひげを剃り、三分の一ずつをそれぞれ、焼き、剣で打ち、風に乗せて散らせとお命じになります。そして残った毛の中のさらにわずかな毛を火で燃やせとも言うのです。
これらは、神の聖所を汚した者について、ある者は疫病・飢饉によって倒れ、ある者は剣で打たれ、そしてある者は四方に散らされるということを語る、預言者による「行動の預言」の一つです。
前にも書いたように、バビロンに捕囚された人々は、「エルサレムを神が必ず守ってくださる」との希望を持っていました。しかし、ここでエゼキエルがことばによって、そして行動によって語ることばは、そのような希望を消し去るものなのです。なぜなら、神に選ばれたことを誇りにしながら、偶像に心を移し、悪事を行う彼らを、義しい神は放っておくことはなさらないからです。
ここにあるように、神による厳しいさばきのことばが随所に見られるので、旧約聖書を読むのが難しい、読んでいて辛いという思いを持つ方も少なくありません。旧約聖書で描かれる神は、新約聖書に描かれるイエス・キリストの愛とは全く違うと考える人もいます。そうではありません。
しかし、ここでは悪を行う者は神のさばきを免れないというメッセージをここから受け取ることが読む一人びとりに求められているのです。
厳しいのですが、通らなければならない道だと思います。