みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

かわいそうに

2018年06月15日 | マルコの福音書

マルコの福音書 8章1−13節

 週一度のドイツ語、昨日は名詞の反対語探しをしました。たとえば、「山」の反対は「谷」、「天」に対するのは「地」という具合です。でも、「空腹」に対するのが「渇き」というのはちょっと…。イランの方、アフリカの方(国名は聞き漏らし)、中国の方、そして私たちの5人で、時には大笑いし、時には???とあっという間の1時間でした。ことばが十分わからないと、それでも何を伝えようとしているのかと、相手の表情をいっしょうけんめいに見ようとするのですね。

 イエスは、三日間ご自分といっしょにいた人々のことをよく観察しておられました。そして、この人々のことで弟子たちに言われたことばは、すべてが相手の人々のこと。「かわいそうに」から始まり、食べるものを持っていないこと、空腹であること、遠くから来ている人もいることなどです。相手のことを真剣に考えておられる様子が伝わってきます。

 イエスのしるし(メシヤであることを証しするための奇蹟)は機械的なものではなくて、その一つ一つがイエスのもとに来た人への思いに基づいていたものだったことに気づかされます。そして、そのイエスの眼差しと思いとは私たちにも同じように向けられているのだと知ると、喜びがこみ上げてきます。

 一方の弟子たちのことばは、自分たちが何をするのか、できるのか、いや難しい…という思いから出てくるものです。彼らはすでに「5000人への給食」を経験していました(6章30ー44節)。あれほどの奇蹟を目撃し、しかも自分たちは人々にパンを配ることさえしたのです。「先生。あれです! あれと同じですね!」とだれ一人期待感を持ち、目を輝かせてイエスに答えなかったとは驚きです。

 しかし、弟子たちのような「学ばない」姿は、私のうちにもあることに気づきます。「あれはあれ、今は別」としていわゆる常識が支配して主への期待、信仰を働かせることがないというようなことです。「学ぶ」とはどのようなことなのかについても、ここから「学び」ます。


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