みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

そばを通る

2018年06月11日 | マルコの福音書

マルコの福音書 6章45−56節

 弟子たちの舟は夕方に湖の真ん中にあり、明け方近くなってもなお目的地に着くことができずにいました。パンと魚の奇蹟を行った場所からベツサイダまではそれほどの距離ではありません。しかし彼らは、長い間風に悩まされ疲労困憊(ひろうこんぱい)していたことでしょう。

 きょうの「みことばの光」には、「向かい風のために漕ぎあぐねていた弟子たちを、イエスはどこから見ておられたのだろうか」との問いかけがありました。私は、山からご覧になっていたのではないかと考えるのです。ずっと同じ場所にとどまっている舟の様子を見ていたイエスは、湖の上を歩いて舟に近づかれました。

 「そばを通り過ぎるおつもりであった」ということばに目が留まるというか、引っかかりを覚えました。なぜイエスは、舟に近づいたとき、真っ先に「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」とおっしゃらなかったのだろうか……とも。弟子たちに意地悪をなさった、ということはもちろんないでしょう。ある注解は、弟子たちの信仰を試したのだろうと説いています。そうだったのかもしれません。

 湖の上を誰かが歩いてくる、しかし、そんなものがあるはずがないとして弟子たちは幽霊だと思ったのです。イエスへの信仰があれば、「あっ! イエスさまがおいでになった」と言ったはずの彼らが、「幽霊だと思い、叫び声を上げた」のです。こんなところにイエスさまがおられるはずはないというのが、彼らの不信仰の姿。しかし、そんな彼らをイエスは遠くから、山の上からじっと見守っておられ、いよいよとなった時に彼らのところに来てくださったのです。

 信仰者がつらい目に遭っているときに、彼をイエスは見ておられるのです。主がどこか遠くに行ってしまわれたと思うようなときにでも、いやそのような時だからこそ、見ておられるということに気づきます。それだけではなく、「わたしだ」(エゴ エイミー)と声をかけて、助けてくださるのです。


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