マルコの福音書 6章1−13節
近くの教会で持たれている週一度のドイツ語の時間。終わって外に出ると土砂降りの雷雨。自動車まで50メートルほどの距離を走る中でびっしょり上から下まで濡れてしまいました。しばらくの間雨がしっかりと降ったので、過ごしやすい夕方を迎えることができました。かなり細かな気象情報が入ってくるのですが、残念なことに信じませんでした。
ナザレの人々は、安息日にイエスの教えを聞いて、その豊かな知恵や力あるわざはどこから来たのだろうかと驚嘆します。聞いた人々の心を打ち、感動を与えたのです。この人たちは、パリサイ人や律法学者たちとは違って、悪霊の働きによるなどとの評価を下すことはしません。
けれども、彼らはイエスをよく知っています。子どもの頃から知っています。村で何をしていたのかも、家族のこともよく知っているのです。その近さ、親しさが妨げになってイエスへの信仰を持つことができないのです。5節は、郷里の人々がガリラヤのほかの場所とは全く対照的な迎え方をしたことを記します。知っているゆえ、親しさゆえ、イエスを求めて人々が来るということがほとんど見られなかったというのです。
6節には、イエスの驚きが記されています。彼らの不信仰への驚きです。郷里の人々の姿は、その前に描かれている会堂司ヤイロや12年もの間病に苦しめられていた女性の信仰となんと違うことでしょう。
イエスをよく知っているということが、信仰にはつながらない、いやむしろ妨げにさえなるというのです。イエスを正しく知るとはどのようなことなのかと問いかけられているようです。