みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

道を閉ざす愚かさ

2018年06月01日 | マルコの福音書

マルコの福音書 3章20−35節

 ウォーキングの初めの頃は、よく道に迷いました。抜け道か…、近道か…? と思って行くと行き止まりで、結局遠回りになってしまったということもあります。

 きょうの箇所には、「イエスの前に立ちはだかる人々」という見出しをつけることができるかもしれません。ガリラヤ地方で、イエスのうわさはあっという間に広がり、イエスが行くところには群衆が集まるということが繰り返されていました。この日もそうでした。「みことばの光」は、イエスを連れ戻しに来た「身内の者たち」は、31節のイエスの母と兄弟たちと同じ人々と理解できると書いています。そうだとしたら、「イエスはおかしくなった」(以前の翻訳では「気が狂ったのだ」)という人々のことばに心を痛めた家族が、イエスを連れ戻しに来たということになります。

 さらに、エルサレムからも律法学者たちが下って来て悪霊を追い出すイエスのことを「悪霊どもの頭によって、悪霊どもを追い出している」と評価します。恐らく彼らは、ガリラヤ地方にある会堂で教える律法学者やパリサイ人の報告を聞いて、イエスへの熱狂を冷まそうとするために「中央」からやって来たのかもしれません。

 彼らはイエスがなさったことを否定することはできなかったので、悪霊の仕業だとまとめました。自分たちの常識をはるかに超えたことが起こったのを神のみわざだとして認めることができないのです。28と29節は、どのような前後関係の中で言われたのかを考えて理解することが大切です。彼らは、聖霊によってなされたイエスのみわざを、悪霊の仕業だとしたのです。このような、彼らの冷ややかな見解は、結果として自分たちが神に近づく道を閉ざすことになるのです。

 神のみこころを行うお方を、悪霊どものかしらだなどと…。なんと愚かでしょう。


2011-2024 © Hiroshi Yabuki