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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

厳しいことばを聞いたとき

2020年12月14日 | ホセア書

ホセア書 9章

 待降節第三週を迎えました。しかし、当地では水曜日から二度目の「ロックダウン」が始まります。食料品や薬局、ガソリンスタンドなど生活に必要なものを扱っている店を除いて、すべての小売店が閉じられることになりました。1月10日までの措置ということですが、クリスマスを控えて激しくなる人の往来を極力抑えたいという強い意志の現れでしょう。先週行われた連邦議会での連邦首相のことばからは緊迫感が伝わってきました。

 「喜ぶな、…楽しむな」ということばとともに9章は始まります。、エフライム(北王国イスラエル)への厳しいことばがあります。1−5節から伝わってくるのは収穫を喜ぶ祝祭です。本来なら神がお選びになったイスラエルの民は、神が住まわせた地で神が与えられた実りを感謝しての祭りを持つのですが、ここにあるのは、主なる神ではなくバアルへの感謝でした。1節の「姦淫の報酬」とは、バアルを拝み、信頼したことによって得られた収穫だ彼らが考えていたことを語ることばです。

 しかし、せっかくの収穫も彼らを喜ばせることはないと主は言われるのです。主が彼らをさばかれるからです。

 心に留めたのは7節。「刑罰の日が来た。報復の日が来た」とは「イスラエルに知らせよ」と主が命じ、預言者ホセアによって民に告げられた警告のことばでした。しかしそれを聞いた人々は、預言者に激しく反発したのです。預言者の厳しい宿命のようなものが伝わってきます。姦淫の妻をめとるようにとの命令とともに始まるホセア書、さらにホセアは自分が神からのことばを語ることゆえに、わなを仕掛けられ憎しみの対象となるのです。

 これを、神のことばを読み、聞く側に置き換えて考えると、厳しいことばを「スルー」せず「反発」せずに、へりくだって聞く姿勢があるのかと問われているのです。 


罪を犯す祭壇

2020年12月12日 | ホセア書

ホセア書 8章

 近々、クリスマス紹介のビデオをアップロードするのですが、昨日は演奏の収録をしました。上のお嬢さんがバイオリン、下のお嬢さんがチェロ、そしてお母さんがピアノです。曲は「天のかなたから」。ルターが作詞作曲したもので、ドイツでとても親しまれているクリスマス曲の一つです。収録の後は、手作りの林檎ケーキ、それに抹茶ロールをご馳走になり、心もお腹も満たされて帰宅しました。

 ホセア書は、「知る」ということばがキーワードの一つですが、8章にも登場します。2節に、イスラエルの人々が「わが神」と呼び、そのあとで「私たちイスラエルは、あなたを知っています」と続きます。

 6章3節の「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう」ということばを思い出します。預言者がイスラエルの民に呼びかけたのではないか、と前に書きましたが、彼らはその呼びかけに表面上は答えたようですが、主なる神は彼らの偽りをもちろん知っておられます。

 ですから、主は「…あなたを知っています」ということばを受けてすぐに、「イスラエルは善を退けた」と続けられるのです。それは、「実際には何もわたしを知らないのだ」という神の思いを言い換えたものです。

 ここに見られる民の姿は、表面的な礼拝、表面的な神への態度です。11節の「祭壇を増やして罪を犯すようになった」ということばに目が留まります。祭壇は神にささげ物を献げるはずの場所。しかし彼らはそれを神ならぬもののために用いていたというのです。

 教会の礼拝、働きが、「罪を犯す祭壇」となり、「主はこれを喜ばない」ということはないのかとは、ここから得られる問いかけです。


わたしの面前にある

2020年12月11日 | ホセア書

ホセア書 7章

 「みことばの光」には、「…を読む前に」などのページが所々あります。今月号にもいくつかありますが、ホセア書7章の解説の前に、「ホセア書と私」という記事があります。執筆してくださった方の家庭をホセア書に照らして書いているのですが、子ども時代に同じようなことを経験した者として、共感しつつ読みました。心に留めたのは、「壊れた家庭にも主の恵みはある」ということば。そのとおりです。

 神の厳しいさばきのことばが続きますが、1節の「わたしがイスラエルを癒やすとき、エフライムの咎、サマリアの悪はあらわになる」ということばがまず、目に留まります。癒やしは罪が明らかになり、悔い改めた時に訪れるものだということです。

 聖書で罪とはまず、神に背く在り方を指します。罪を隠し続けているのなら、人に癒やしや穏やかな心は訪れません。神の前に何も隠すことはできません。2節で言われているように「わたしの面前にある」のです。

 もう一つ、「わたしから離れて…」ということばから、神がどれだけご自分の民を愛しておられるかということが伝わってきます。これは、「こんなにもわたしは待っているのに、どうして戻って来ないのだ」という、神の嘆きのようなものです。

 きょうは、「主よ、あなた御思いを分からせてください」という祈りのことばが出てきます。


見えない方に

2020年12月10日 | ホセア書

ホセア書 6章

 水曜日の祈祷会では、「みことばの光」の聖書箇所を一緒に読むのですが、昨日も一人で読んでいる時には気づかないいろいろな発見がありました。

 6章は、「主に立ち返ろう」という呼びかけのことばで始まります。1−3節は預言者ホセアの呼びかけのことばでしょうか。そして、主に立ち返った者が経験することが並びます。癒やし、生き返らせ、立ち上がらせる、御前に生きる…。そして、彼らはもはや偶像を追い求めることをしないで、主を知ることを熱心に求めるようになるのです。これらは、主に立ち返った者に主がしてくださること、そして立ち返った者の生き方です。

 預言者のこの呼びかけに主の民は答えたのでしょうか。4節からはそうでなかったことが述べられます。彼らの行動は朝もやのように、朝霧のようにはかなく消えゆくものでした。

 6節のことばは、ホセアの時代に限らず今も、私たちが心に留めることだとして読みました。自分の見えないところで主につながっていなければ、どうしても形にしたくなります。それは、この時代ではいけにえをささげること、全焼のいけにえをささげることでした。全焼のいけにえとは献げる者の献身を表していました。しかし神は、彼らの心をご覧になるお方です。

 見えないお方だからこそ、私たちの見えないところが大切なのだということを、ここから知ります。


わたしを捜し求める

2020年12月09日 | ホセア書

ホセア書 5章

 

 スイスにお住まいの友人から、昨日も美しい写真が届きました。雪景色です。もったいないので、フォルダを作って保存しています。そのうちの1枚をお分かちします。今月号の「みことばの光」にも雪景色の写真を載せていますが、いかがでしょうか。

 預言者が姦淫の妻をめとるということから始まったホセア書は、5章でもイスラエルの民が神を離れて神々に走る姿を、姦淫ということばで表しています。

 1節の祭司たち、イスラエルの家、王の家とは、民に正しい道を教え、民を正しくさばくつとめをになう指導者たちでした。それなのに、彼らは民にわなを仕掛け、網で捕え、殺していたのです。そして、神はこのような者たちをさばかれるのです。

 少し前に読み終えたエレミヤ書にしてもこのホセア書にしても、読んでいるのが辛くなるほど、神がご自分の民をさばかれることが繰り返されます。もっと心が明るく、暖かくなるようなことばを読みたいと思うかもしれません。しかしよく考えてみるならば、預言者ホセアが身をもって語ることばには、厳しさの先に確かな希望があるのです。

 それが、やがてご自分の民は罰を受けることを通して、神の御顔を慕い求めるようになるということです。「苦しみながら、わたしを捜し求める」ということばは、神のさばきを受けて、ようやくのことで神のもとに帰ろうとする民の姿を現わしているようにも読めます。そのようにして帰ろうとする者に、神が走り寄って迎え入れようとするのがクリスマスの意義だと考えます。

*写真は松林幸二郎氏によるものです


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