魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

思い込み

2010年03月16日 | 日記・エッセイ・コラム

自民党は民主党が野党の時、選挙に負けたら空中分解すると言っていたが、分解しなかった。
逆に、自民党が大敗すると、バラバラと分解し始めた。

政党の話をしようというのではない。
「人は自分の目で他人を見る」またも「アホ言うもんがアホ」の話。

人は誰かを分析評価する時、自分の情報・視点でしか測ることができない。
自民、民主の例で言えば、政権権力に群がっていた自民議員は、政党は権力のためにあると考えていたが、政党の本来の存在理由は主張であり、権力はその結果である。と言うことを忘れていた。

自分の目で他人を見ると、まったく見当違いの判断をする。
夢中で何かをしている人が、たまたま話題になり、その人が有名になったりすると、「ええかっこしやがって」と嫉妬する人が現れる。逆に、「すごいなあ」と感心する人もいる。
しかし、有名になった当人は、有名が目的ではないから面食らう。

嫉妬や感心をする人は、人を社会的な「立場」で評価する。
そして、自分の期待した「立場」の行動を取らないと、「らしくない」と抗議する。もちろん、けなす人は「ほら、やっぱりろくでもないやつだ」とダメ押しする。
当人は、自分の関心のないところで、上げ下げされて面食らう。

日本を目の敵にする中韓は、「日本はこんなに悪いヤツだ」と、それぞれ博物館を作ったそうだ。
写真しか見たことがないが、中国は「30万人」南京大虐殺の虐殺シーンのジオラマや人形を。韓国は日本の官憲による拷問など、特に性的拷問に力を入れているようだ。

それがあったか無かったかの問題は別として、
悪いヤツとは、自分が抑えている欲望を実際にやるヤツだ。
悪行の典型表現として「酒池肉林」と言うが、誰でもそんなことは
「してみたい!」のにできないから、腹が立つ。だから悪いヤツだ。
酒も女も嫌いな人(?)にとっては、「酒池肉林?それがどうかしましたか」だ。

つまり、中国は残虐性を、韓国は好色性を、自ら暴露している。
日本人はこうした博物館を「止めろ」と言うより、パック・ツアーなど国内でも宣伝し、観光地として積極的に見に行った方が良い。

当然、向こうは得意になって見せるだろうが、黙って見学して黙って帰れば良い。来る日も来る日も、日本人が黙って見て黙って帰れば、
そのうち、何か変だなと気づくだろう。
そして、多少なりとも見識のある人に、日本での悪評が伝われば、廃止に動く。

重要なことは、勝手に思い込んでいる人にコメントしないことだ。
何事もそうだが、相手が騒ぐ時、同じ次元で口をきいてはいけない。
何をどう言おうと、相手の都合の良い裏付けにされてしまう。


苦労マグロ

2010年03月15日 | 日記・エッセイ・コラム

何でも日本の後追いをして日本のお株を奪うことで成長してきた韓国が、今度は韓国料理を世界の料理にするんだとガンバっている。
それはそれで結構なことだ。かなり見当違いだと思うが、ガンバレ!

日本料理はいつの間にかグローバル化してしまった。
一昔前は、「日本人は魚を生で食べるんだろう!?」と、野蛮人扱いされたが、今では競って「日本料理」鮨を食べている。

ここに至る経過は色々あるが、日本人にとって、少しも嬉しいことではない。競って食べる成金のために、日本にマグロが入りにくくなり始めていた矢先、やはり心配していたことが始まった。

日本にとって本当は迷惑な人気だが、「目立ち過ぎ」が気にくわない連中の目に止まり、「負けてなるものか」と思う韓国のような国もあれば、ブームを見て気をもむ「良識」国家が、「見識」ぶってマッタを掛けた。

「クジラ、イルカの次はマグロかよ!」日本人にとってはもう、日本バッシングとしか考えられない。

しかし、これはバッシングと考えない方が良い。
世相史観的には、鮨ブーム自体、魚座時代の現象であり、「極まれば転ずる」の反動現象が出ているに過ぎない。
日本料理ブームも、日本料理というより、「鮨ブーム」が本体と考えれば説明が付く。

目立つモノには、良いこと悪いこと、いろんな評判が立つ。
生魚を食べるという「嫌悪感」が、意外な実態を知って「好感」に変わる時、激しい興奮が起きる。いわゆる「イッて」しまって行きすぎた。
そして、鮨ブームの異常興奮に、「良識派」が顔をしかめているのだ。

こういう場合は逆らわず、とりあえずハイハイと聞いておき、鮨ブームが収まってから、もう一度、科学資料を出して再考に掛ければいい。クジラよりは根が浅い。
土星が来て意固地になっている日本では、「ここで受け入れたら、次々と禁止案が出てくる」絶対に受け入れるわけにはいかない、のムードで一杯だが、ここで逆らえば傷口は広がる。条件付賛成が賢明だ。

世界のクロマグロの80%を食べると言われる日本人でも、元々、鮨ネタはマグロが中心というわけではなかった。冷凍と遠洋漁業が盛んになってからだ。どんなネタでも、美味しく食べるようにするのが鮨職人であり、それを美味しいと楽しめるのが、海洋国の日本人だ。

面白いことに数の子は、高騰して一時、馴染みが薄くなったせいか、若い人はあまり食べなくなったようだ。
食習慣とはそんなものだが、クセのないマグロはそうはならないだろうから、畜養や養殖を広げればいいだろう。ただ、飼料の問題は心配だ。


目を覚ませ

2010年03月14日 | 日記・エッセイ・コラム

「♪マーメが欲しいかそらやるぞ」と、ハトが豆を、子供にまくと、「コーメがいいけどマメもいい」とバラマキ好きも参加した。
バラバラと音がするが、大丈夫だろうか、何か壊れる音かも

しかし、一方で
休暇の分散化案は、中身は解らないが良いことだと思う。
金がなければ知恵を出せ・・・
金がない時こそ、良い知恵が生まれてくる。
知恵は、どこでも生まれ、無限の可能性を持つ。しかもタダだ。

出勤時間をずらしてラッシュが緩和した。
高速道路を造らなくても、走り方のルールを変えれば、一銭も掛けずにスピードアップや事故を減らせる。
ホールを造らなくても、野原でイベントをやれば金と人が集まる。
CO2削減や少子化など、夜間放送を止めるだけで大幅に向上する。
金がかかると言われているもののほとんどが、ルールを工夫するだけで、まったく金が要らなくなる。

金を掛けなければできないと思っていることの、ほとんどすべてが、
金を掛けるシステムに乗ってやっているからだ。
知恵が出ないのは、金漬けで、ゼロから考える習慣を失っているからだ。

日本の停滞はハングリー精神が失われたからだという。
満ち足りると、原点を忘れる。
40年前。
中東のホテルでアメリカの若者が「ホット・シャワーがない!」と怒っていた。それを聞きながら、『シャワーがあるだけでも喜べよ』と思った。
20年前。
日本のオートキャンプの管理人が「夜中に、川のせせらぎの音がうるさいと、文句を言いに来る人がいる」とあきれていた。
既に、この時、日本人は40年前のアメリカ以上に、原点を失っていた。

それから20年間、日本は沈みっぱなしだ。
いまだに、目覚めていない。それどころか、原点を知る世代が現場から消えていくに従い、ますます衰退している。
挙げ句の果てには、ハングリーな元気者の韓国に習おうとまで言う。

「0」の原点から「考える」のではなく、「見習」おうと言うのだ。
マスコミ、政治家、財界までも、「マニュアル思考」しかできない。
本当に、おでこを叩いて「Anybody home?」と言ってやりたくなる。

金があるから「金銭思考」をする。金がなかったらどうするか。
橋がなければ渡し船。机がなければミカン箱。知恵と工夫があればどんなことでもできる。

愛の証がダイヤの指輪だと、初めから思い込んでいるようでは獲得の知恵は出ない。愛が何かを知ることもない。


押し売り

2010年03月13日 | 星の流れに

火星が獅子座の0゜で順行を始め、月と180゜になった、11日~12日に掛けて、獅子座のオバマ大統領は、アメリカが再び輸出大国になるとブチ上げ、水瓶座の鳩山総理は企業の法人税引き下げを示唆した。
また、懸案の子供手当も衆院で可決し、とりあえず山を越えた。

近況」で言ったが、いずれも、苦境をむしろ上手く切り抜け、「なんとか」脱出の手を打ち出したようだ。
しかし、だからと言って世界が良くなるわけでもない。トップが立場上切り抜けただけで、賢い方針とも思えない。

アメリカが輸出大国になると言っても、一体、何を売ろうと言うのだろう。近年のアメリカの輸出と言えば、マネーと利権で、製造は地に落ちている。輸出振興使節団を40カ国以上に派遣すると言うが、貿易摩擦の売り込み態度は、ガラクタの押し売りだった。
そのうえ、輸出のためには中国の為替切り上がまず前提だという。
要は、中国への圧力と言うことだろう。
「相手に交渉の決定権を握らせない」商の天才中国が、米国債をずっしり握らされて。「オレが破産したら困るだろ」と言われている。

ところで、押し売りと言えば、それが、どんなことか、実際に知る人は少なくなったのではなかろうか。
いつ頃からあった言葉か知らないが、終戦のどさくさの頃。サザエさんのマンガにも、押し売りが玄関先に居座って凄むシーンがあった。

「苦学生のアルバイトだ」と言う者、「昨日、刑務所から出てきた」と言う者、色々のパターンがあったが、商品はゴムひもなどの日用品で、それもひどい掛け値というわけではなかった。
現代の押し売りの末裔は、家の修理など何千万のものを売りつける。悪毒なったのか、それを払える時代になったと言うべきか・・・


象徴

2010年03月12日 | 日記・エッセイ・コラム

トキがテンに襲われて大量に殺された。
関係者の落胆と悔しさが、ヒシヒシと伝わる。

我が家に来るツバメがやられた時でも、相当ショックだったのに、
苦労して、本当に手塩に掛けて育てた雛たちが、ようやくこれから独り立ちしようという矢先に、ほぼ全滅だ。

我が家のツバメなど、勝手に来て勝手に子育てしているのだから、こちらが心配するのは、大きなお世話というものだ。
しかし、トキは国家事業にまでなっている。多くの人が様々な形で関わり努力した結果だ。まるで、H-2Aロケット失敗のような国民的挫折感を伴う。

関係者の心境を考えると、まったく責める気にはならないが、
何で、もう少し、気の利いたことが出来なかったんだろう。既に前にも、イタチが入ったと言うではないか。
国家事業の自覚があるなら、その時点で、重大事として対策を打つべきなのに、ニワトリを飼っているぐらいの感覚だったとしか思えない。

いまどき、DIYショップに行けば、赤外線センサーの照明器、警報機器が玩具程度の値段で売っている。
せめて、センサー照明器だけでも付けていれば、トキは飛べたかも知れない。
WEBカメラとセンサー警報機を組み合わせれば、担当者に知らせることも出来たはずだ。相当なことをしても5万円もかからない。

正直なところ、個人的には元々、トキの復活にあまり賛成ではない。
一度、滅んでしまったものだ。自然の摂理に逆らう行為であることには違いない。コウノトリのように、自然環境から復活させるのなら解る。絶滅を防ぐ環境努力も重要なことだと思う。しかし、トキの場合は根本的なことが逆のような気がする。

それでも、トキの復活は日本人の夢であり、うまくいって欲しいと祈っていた一人だ。

だが、やはり、ここでも天秤座の土星は冷たい仕打ちをした。
学名「ニッポニア・ニッポン」トキの不幸は、天秤座=日本が置かれた状況を象徴している。


近況

2010年03月11日 | 星の流れに

水瓶座は木星が去ってがっくり来ているが、ダメになっているわけでもない。むしろ、天秤座の土星が、「悟り」をもたらしてくれる。
同じように、獅子座も色々な相手に振り回され、頭に来て爆発寸前だが、何とかやっていける。

今日11日は、火星が獅子座で順行、月が水瓶座に来て180゜になる。
天秤の土星とオヒツジの金星等に助けられむしろ上手く切り抜ける。
(水瓶鳩山/獅子オバマ)

昨年、木星・水瓶座ならではの科学分野の現象は、スパコンの事業仕分けに、科学者が一斉抗議したことや、理系政権誕生だろう。
スパコン自体は射手座だが、科学技術全体の問題としての意味が大きい出来事だった。
この結果、今年に入ってスパコン政策を変えたのだそうだ。木星による手術は辛かったが、結果オーライになったようだ。

現在の魚座木星は、いかにも魚座らしい主客の逆転を意味する化身=「アバター」が大人気しているが、アカデミー賞は元妻の「ハート・ロッカー」の方で、これも、いわば主客の逆転現象と言えるのかも知れない。
「The Cove」にしても、タイトルそのものも魚座だが、動物愛護は主客逆転愛だから、魚座の年ならではの結果だ。同じ動物愛護でも海のイルカというのが良くできている。

木星は秋にもう一度帰ってくるから、全体としては魚座だが、もうすぐ牡羊座に抜ける。ちょうど、基地問題の決着やサッカーの頃だ。
日本は相手の顔ぶれを見る限り、勝点0確定だが、ワケの解らない展開が起こる時だけに、意外な結果が出るかも知れない。
ヒマがあったら占ってみたい。

水瓶座や獅子座は、まだ救われるが、救われないのは天秤座・日本で、
弱り目に祟り目だ。デフレ、円高、基地、トヨタ、クジラにイルカにマグロ、挙げ句の果てに、日本デフォルト論まで堂々と論じられ始めた。

日本人全体が、脳停止か鬱状態だ。
状況はそれほど悪くないのに、悪いことばかりに目をやり、意地になり、正面突破だけを考え、やっぱりダメだと落ち込んでいる。
向かい風に抵抗するより、柳に風と受け流し、別の青山や雲を求めて旅立てば良いのだが、それができない。

お金の集め方や、ばらまき方でもめているより、規制緩和や新ビジョンを打ち出し、国民の意欲をかき立てる時だと思うのだが、
あ~、やれやれ


抜本的に

2010年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム

育児休暇とか子供手当とか、一見もっともなようで、何か根本的におかしい。

やり方以前に、ビジョンと知恵がない。
先日も「限界だ」で、子育ては社会が責任を持つべきではないかと言ったのだが、世の中はどうもそういう風には動いていないらしい。

世の中を変えると言って、政権を取った民主党も、子供手当のような、基本的に「親に責任を負わせる政策」だ。男性の育児休暇にしても、もっともらしく聞こえるが、社会が責任を負うことに逆行する。

育児を社会で行うなら、まず子育て環境から整えるべきだろう。
虐待は極端な例としても、親に金を配れば育児が保証されるものではない。

保育施設と人員の整備、幼老環境の一体化など、単に子供を預かるだけではなく、世代の再統合と雇用の創出などを同時に考える、社会再構築の視点から考えるべきだ。

民主党が動けないのは、能力がないこと以上に、旧態然の政治家が漬け物石のように、上にのっかつているからではなかろうか。
若造集団の維新政府のような、旧体制を徹底的に破壊する、無秩序で途方もないことをやって欲しい。
国会議員の何年生ルールなど、ぶちこわせ


何様?

2010年03月09日 | 日記・エッセイ・コラム

書きたいことが多すぎて、身体が付いていかない。
誰かに口頭筆記してもらいたいぐらいだ。

アカデミー賞長編ドキュメント部門で、和歌山のイルカ漁を批判的に描いた「The Cove」が受賞した。

魚座に惑星が五つもいる。(太陽、水星、金星、木星、天王星)
いかにも、いかにもの現象だ。(極まれば転ずるが)

魚座は言うまでもなく「愛とエロス、錯誤と偽物」を表す。
このところ色々と「愛」の話題も出ているが、動物愛護という偏愛・錯誤のブラックホールのような論理が、ついに、キャンペーン映画となり、ハリウッドにお墨付きをもらった。

元々、シーシェパードに資金提供しているのも、多くのハリウッド関係者だ。ハリウッドは映画の都、虚像の世界であり、動物愛護のマインドと同じ魚座だから、こうなるのも当然だ。

まず、イルカ漁には「もう、止めても良いんじゃないか」と言いたい。
その上で、

もう一度、ハッキリさせなければならないのは
われわれ人間は、自然の一部であり、生きとし生けるものは同等の価値を持ち、互いに支え合っている。
と、同時に、互いが互いを喰らい合って生きる、宿命を背負っている。
食い食われることが、支え合うと言うことだ。
植物だって生き物にかわりないし、人間だって細菌に冒されるのだ。

あれは食って良いがこれは食ってはいけない。
それは人間の驕りであり、欺瞞偽善だ。食うために飼育した牛やブタは食べて良いが、自然界の動物はダメだと考えることを、当然だと思う感覚と価値観で、善悪を裁く。それは、文明を気取る驕りだ。
そのような「恥知らず」が、狂牛病や鳥インフルエンザに逆襲されるのだ。「殺すな」は、バイオ人工肉の時代にしてから言って欲しい。

制作監督が「日本人に別な未来を提供する(考える)ためのラブレターだ」と言ったそうだ。
「日本人はこの映画を見て、食べる肉のためや娯楽のために動物を利用するべきなのかどうか、自分で判断して欲しい」
「日本人には知る権利がある。人びとに(起きていることを)伝えるという、日本のメディアがやらないことをこの映画はやっている」と話した・・・そうだ。まさに『何様だ!』

お金持ちになり、動物愛護法に慣れた日本人の多くもこの映画を見たら、イルカ漁反対と言い出すだろう。それも洗脳だから仕方がない。

心ある映画人、報道人は、直ちに世界の「」や、ハンティング現場を克明に撮影して、映画化すべきだ。
殺される、牛やブタや羊や犬の、表情を丁寧に映し出し、それを美味そうに食べる人間を楽しそうに映して、「メディアがやらないことをした」と言って欲しい。
クジラ


惑星の後

2010年03月08日 | 星の流れに

惑星が去ると、飲んで騒いだ翌朝のようなことになる。
目が覚めたら、横に寝ているのは誰?!
・・・みたいな、大変なことが起こっている。

特に、一年間盛り上がる、木星の場合は、かなり激しい。
もちろん、飲んで、喧嘩する人もいるから、楽しくない場合もある。
マズい事が起こるのは、その人の資質で、飲むと怒ったり、何でもしゃべってしまったりする質が災いしたものだ。
つまり、「本性」が出た結果だ。

木星が来ると気分が大きくなるから、それが幸いして、日頃ならできないようなことを、思い切ってやって、できないことができたりするが、被らなくても良い悪評を買うこともある。

木星で悪酔いして、目が覚めて今、オロオロしている人は、水瓶座だから、
鳩山総理、金正日、真央のタラソワコーチ、地域なら、北海道、ロシア・・・、事象なら、組合組織、豊田(風雲
何がどうオロオロかは、いまさら言うまでもない。

木星がイケイケで失敗するのに対し、土星は悲観的で意地になって失敗する、泣き上戸で、デフレムードの今の日本がまさにそうだ。
浅田真央が、4年後への挑戦を公言しているのは、素直でかわいいが、意地になって、どんどん自分を締め付ける日本に通じる。

シーシェパードに乗り込んだ男の逮捕は、賢いやり方ではないと思う。
クロマグロ問題にしても、こういう場合は、むしろ積極的に賛成して見せた方が、後の展開の可能性が生まれる。が、逆をするだろう。
クジラにしても、元々、賢いやり方ではない。

ところで、水瓶座の浅川マキが木星後に亡くなったし、森光子はドクターストップが掛かった。宮下順子も愛染恭子も水瓶座で、昨年はがんばったようで、宮下は昨年のNHK「再生の町」に女医の院長役で出ていたし、愛染は先日、ロケ船が爆発炎上して辛くも逃れたとのこと。

また、坂本龍馬の福山君も水瓶座。現在は昨年、撮影のものだろうと思う。昨年は歌の方も良かったが今年に入って、もしかしたら本人は当て外れになるかも知れない。香川照之等に食われている観がある。
作者の意図だろうが、歴史物はどうも男の脚本の方がいい。


化けて出る

2010年03月07日 | 動物

棚田で有名な滋賀県の村落を抜ける、県道を走っていた。
交差点で出会ったミニバンに道を譲り、上り坂を後に付いて行った。
すると、村の中程で、ミニバンの前に小さな動物がウロウロするので、ミニバンが止まった。上り坂の斜め上だから、後ろからも見える。
ネコかと思ったが、どうもそうではなさそうだ。イタチにしては大きすぎる。遠目には、小型のアリクイのようにも見える。

車の前を、左に行きかけたと思うと、引き返して右に、また左に。
しばらくして、ようやく道の端に行ったので、ミニバンも動き始めた。
また引き返してくるかも知れないので、こちらもノロノロと進む。後ろにも車の列ができていたので、止まるわけにはいかないが、その、見たこともない動物は何だろう?と、脇見しながら進んだ。

近くまで行くと、背中に手袋二つほどの毛の山を載せている。
通り掛かりだから、確かではないが、『タヌキだ!』
確か、タヌキの皮膚病がどうのと言う記事を、目にしたことがある。

全身がサイの皮膚のようになって、背中の部分だけ孤島のように生えている毛に、わずかなタヌキの名残がある。
かわいそうだが、どうにもならない。

帰ってネットを検索すると、やっぱり近頃、タヌキの皮膚病が大流行して、罹ったら結局、死ぬと書いてあった。
ダニによる疥癬で、皮膚の下をダニに蝕まれ、痒くて痒くて寝ることもできず、衰弱して死ぬのだそうだ。

疥癬は、昔は人にも多くあった。近頃は少ないが、ケジラミや、結核の流行など、撲滅したと思う頃に現れる。
「極まれば転ずる」のは、大きく増えることだけではない。少ない絶滅状態からの復活と言うこともある。

世の中、思いがけないものの蘇りは、どんなものにも始まることだ。
60年、84年と経てば、何とか主義とか軍拡競争とか・・・
タヌキ事ではない


限界だ

2010年03月06日 | 日記・エッセイ・コラム

もう何度も、同じ話題を書くことになる。
結婚の未来2」「昔には帰らない

奈良で、また子供が虐待死した。
「夫婦仲が悪くなって子供に愛情を持てなくなった」という理由だそうだが、子供を育てるのは愛情ではない。義務だ。

自立できない幼い命を養うのは、親と社会の義務だ。
親と社会といっても、親より社会の方がより責任が大きい。親が養育を放棄することは動物にもあるし、親が死んで養育できなくなることもある。
その時、代わって育てるのは同じ集団の大人であり、大家族時代なら一族で育てた。

様々な事情で、親が子供を育てられなくなることは、ごく普通に起こる。
赤ちゃんポスト出現の時、親が育てないのは責任放棄でケシカラン、という議論が噴出した。しかし、親の精神崩壊も親の死もあるし、
それ以前に、核家族化による、親の子育て教育が失われていることも、養育困難な環境となっている。

いずれにせよ、「親が子育てするもの」という単純な原理が通用しなくなっている。
未来に対して柔軟な発想を持ち、子供を育てるのは社会の責任であるという認識で、社会環境を整えなければならなくなってきた。

虐待事件の多発は、旧概念の崩壊と、新時代への発想の転換に向けて、社会全体に、勇気を持てと告げているような気がする。


国威発揚

2010年03月05日 | 日記・エッセイ・コラム

オリンピックが終わって、ようやく静かになった。
木星→魚座の中韓のワル乗りも、お約束通りだった。

木星が去った直後のロシアも絶不調で、頭に来た大統領がいかにもロシアらしいセリフを吐いた。
「責任者は辞任すべきだ。出来ないなら私が助けてやろう」
何ともウオッカの香り芳しい、すてきな言い回しに、爆笑した。

オリンピックも、産業革命パラダイムの一員だ。
国家競争の戦争ゲームとしての国威発揚競争。
祭りで稼ぐテキ屋商売に欠かせない、無用の熱気と盛り上げ。
国家とマネーの共演アトラクション。虚飾にまみれたオリンピックを招致したがるのも欲のためだ。

現状のオリンピックに、スポーツは関係しない方がいい。
もちろん参加するのは結構だが、「メダルは関係ない」という大人の姿を見せれば充分だ。参加することに意味がある、という態度を堂々と示して欲しい。

ひたすらメダルを取るためだけの強化対策など、オリンピック本来の志を愚弄するものだ。
スポーツを日常的に楽しむ社会文化の一環として、オリンピックにも参加する。勝てば勝ったで結構なことだが、あくまでそれが目的ではない。メダルを取るためだけに参加して、自慢する国があれば、大人の目で「えらいえらい」と褒めてあげればいい。次元の違いに誇りを持ちたい。

そういう余裕を持つためにも、オリンピック強化のために国費を投ずるようなことは、一切、止めた方がいい。
国費を投じて勝てなければ、責任論が出てくるのは当たり前で、
大統領が「私が助けてやろう」と言わなければならなくなるし、
国家総掛かりでやっても、勝てないと、ガッカリすることになる。

それでも勝ちたいという人達は、同志を募り、賛助金を集めればいい。
こんなことを言うと、
「国旗掲揚のために頑張っている選手(戦士)になんてことを言う」
という人もあるかも知れない。

でも、どこかで話が違ってきていませんか?
オリンピックは、国家競争ではなく、スポーツを愛する出場者個人のものだったはずではないですか。
何で国旗・国歌になるんですか?

オリンピック=国威発揚、という図式になってしまったのは、我々が、産業革命パラダイムの、時代の子だからだ。
時代は大きく変わろうとしている。スポーツに対する考え方も、勝ち負けだけが目的ではないという、原点から考え直す時が来ている。
国威発揚競争から、一抜けた・・・と
大人になりたい


シンプル

2010年03月04日 | 日記・エッセイ・コラム

一貫して、ハイブリッド車は、ソニーのフラットテレビと同じでインチキだと言ってきた。
射手座の効用」、「甦れ騎馬民族3」、「電気自動車

トヨタ問題は、様々な問題を含んでいるが、
まさに、ハイブリッド問題なのだ。
ハイブリッドカーとは、原点のシンプルに立ち返ることなく、
死体を防腐処理して「こんなに美しくなりました」と言っている。
嘘の始まりだ。(嘘を隠すために、また嘘が必要になる)

生きていると思って見ている人が「あれ、寝息が聞こえないよ」と言えば、どう答えて良いか解らなくて、
悩んで「・・・」しているうちに火がついた。

もちろん、問題はハイブリッドカーから始まったのではない。
車のハードと電子制御のアンバランスから始まったのだが、ハイブリッドカーは、それよりさらに、電気自動車との無理な組み合わせ、電子制御の極地だ。

当初はニュー概念を容認して乗る人ばかりだったから、文句は出なかったが、一般に普及するほど問題が噴出する。
ワカリ切っていたことだ。

ガソリン自動車という、事実上の死体を、何とか蘇らそうとした技術者の気持ちはわかるが、製造業者トップの戦略に誤りがあった。

時代の転換を見据え、原点から「ものづくり」を始める心意気が必要だった。
ガソリンがダメになったら、改良して使うのではなく、ガソリンを捨てて考えてみる。荒野に向かう勇気だ。
今、目の前で

この先は、電気自動車か、燃料電池か解らない。もっと他のものかも知れない。
しかし、何であれ、一から始めるものは単純で解りやすい。
加えて、新概念に不満は出ない。
Simple is best !


救護船団

2010年03月03日 | 日記・エッセイ・コラム

このところ、情報時代になってから、想像を絶する大災害が続いている。以前なら、同じような災害があっても、情報が伝わらず、
「なんか、すごい災害だそうだが、ほんとかなあ?」程度だった。
ところが、今では、地球のウラ側の災害が、家の外で起っているような臨場感で伝わってくる。実際、すぐ商品相場に影響したりするから、もう、完全に地球村の住人だ。

近頃、中国は覇権を狙ってアメリカの海洋艦隊に負けじと、空母を建設するらしい。世界中に艦隊を配備するアメリカは、ハイチ地震で直ちに、医療施設を完備した病院船を送った。これは、中国にはマネのできない芸当だ。

日本は戦争を放棄しているから、空母や海洋艦隊は派遣できないが、その気になれば、病院船を始めとする「救護船団」は世界配備できるはずだ。医療・食料・物資を積み込んだ船団を世界に配備すれば、災害時に直ちに派遣できるし、当然、日本近海の主力は本土の災害時に直ちに救護活動が行える。

常に災害現場に駆けつける救護活動は、救護そのもののスキルを磨くから、日本自体の災害対応時にも還元される。
そして、何よりも、世界に平和日本を知ってもらうことになる。

災害時に受けた親切は、決して誰も忘れない。
災害が起きるたびに、何億ドル出すとか何十人派遣するとかの押っ取り刀の救護活動より、世界のレスキュー国家として存在感を築くことは、日本経済にも無駄ではない。
誤解を招くかも知れないが、レスキュー・ビジネスだってあるのだ。

自衛隊を派遣するとか、血の貢献とか、防衛システムを構築するとか言う前に、「情けは人のためならず」の貢献という戦略があっても良いはずだ。


無心のみ

2010年03月02日 | 占いばなし

このところオリンピックや、トヨタバッシングの話をしていたら、論調がナショナリストのようになってしまったが、個人的な郷土愛はあっても、占いの視点に愛国はない。
占い師に多い国粋主義は、運命論的保守感覚や、シャーマニズム的な神官のマインドから陥りやすいもので、占い研究とは関係ない。

占いにとって、国家や民族はむしろ研究対象であって、占いの視点は天地であり、見つめるのは人そのものだ。
国家のような人為的なくくりを基準にしていては、決して森羅万象の本質は見えない。
国は破れても山河は残り、人も民族も絶えず交わり移ろい、同じ人などどこにもいない。
占いの目は、杜甫や鴨長明の目線と、おそらく同じところにある。

しかし、生身の人間であることには変わりない。どこかに立ち、何かに感じ、思惑が動く。

占いを他人に聞かれると、おおむね妥当な判断が出来ても、自らテーマをたてて予測しようとすると、大抵外れる。
これは、個人の感情や欲望が願望となって、占いの達観を曇らせるからだ。占い師なら、株や競馬で大もうけしそうなものだが、そんなものではない。(したと言う人は、単なる自慢屋か占い商売の宣伝だ)

占い哲学の集大成とも言える易経では、これを厳しく説いている。
山水蒙」の卦の冒頭に
匪我求童蒙。童蒙求我。・・・とある。
(我より童蒙に求むるにあらず。童蒙より我に求む)

色々な解釈はあるが、
他人が本当に解らないときに答えるのであって、聞かれもしないのに答えるものではない。
つまり、占いに頼るのは本当に解らなくなったときで、必要もないのに占ってはいけない。占いを欲に使おうなどという下心があっては当たらなくなる。と教えている。
当然、興味本位や邪心による予想も、当たらなくなる。してはいけないことだ。
だから、予言のように、頼まれもしないのに吹聴することも禁じ手ということになる。

なお、このブログが星の動きで将来を考えているのは、予言ではない。「もしかしたら、こういうことかな」という、過去との比較考察だ。

さらに、「蒙」の卦は言う
初噬告。再三瀆。
(初噬は告ぐ。再三すれば瀆る)
無心で出す最初の答えが真実で、何度も聞かれて答えれば汚れる=無意味になる。何が何だか解らなくなる。
いずれにしても、欲が絡んだら占いは当たらなくなる。と言うことだ。