魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

三題噺

2010年03月18日 | 大転換

今夜のニュースは、日産の提携、春闘の定期昇給、子供手当の話題がメインだった。

近頃のニュースは、何を聞いても、結局、パラダイムシフトの大津波が襲う直前の漁村のように見える。
「ここを捨てて早く非難しなければ、命はないぞー!」と、
どんなに叫んでも、村人は、相変わらず今日の仕事に追われている。

日産はルノー・ダイムラーとの提携を模索し、発展中のインドに進出する。
春闘は、日本経済の発展パターンが崩れて後も、続いている。
子供手当も、賃金保証も、資本主義経済の土壌に水をやる発想として、間違ってはいないのだろう。

産業革命パラダイムの中で、
全体主義も共産主義も失敗した。よく解らないが、考えが間違っていたと言うより、それを行った人間の問題ではなかろうか。
もちろん、人間の持つ弱点を計算していないこと自体が、間違いだったというわけだ。

しかし、根本的に間違っていたのなら、あれだけの人が、とりつかれたのは何だろう。
おそらく、夢や理想においては素晴らしく、皮肉にも「麻薬」になり得たのではなかろうか。夢や理想だけで幸せになれると思う人は、今でも大勢いる。

産革パラダイムの250年。その渦中の苦楽の外に、夢は常に浮かんでいた。だから、夢は産革パラダイムとともに消えゆく影なのだ。

今までの世界や価値観が失われれば、新しい実体が現れる。
影が実体になることも可能になる。産革の苦楽の中で思い描いていた理想像が具体化することも、可能になる時がきた。

大量生産大量消費のエンジンを、中国インド、そしてアフリカへと移し、産革パラダイムの延命治療を続けても、死はやがて訪れる。

労働、賃金、個人消費の、むなしい自転車操業を続けたり、見果てぬ夢を信じ、産革パラダイムに浸り続けるより、
来るべき新世界をイメージして、今の現実を築く時が来ている。
マネーや大量消費はやがて消えるだろうが、おそらく、100年は掛かる。

その日を待ちながら、日本は、工業生産のグローバル化から離れ、徹底した自給自足に基づく自立国家(新鎖国)を前提に、文化発信を産業とすればいい。

産革時代に、小さな何もない国だったから貿易立国でやってきた。
世界が産革パラダイムの飽和に向かう時、もう、物や技術ではない。
ファッション、センス、イメージ、ノウハウ・・・といったスタイルを売り物にすればいい。

特許や、技術ではない。日本人が数千年培った「生き方」そのものを商品にすれば、いくら盗まれても、尽きて無くなることはない。