魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

避難非難

2010年03月01日 | 日記・エッセイ・コラム

チリ地震で大津波警報がでた。チリ地震からはちょうど50年で、日本では4mの津波で142人の死者がでた。今回はその半分も無いとはいえ、避難していなければどんな被害が出ていたか解らない。
警報は大げさすぎて悪いことはないと思う。何もなければそれで良いのだから。

地球の裏側から一日もかかって来る津波には、備えることが出来た。南海・東南海地震は、一瞬のうちに津波に襲われるから、こんな悠長な状況ではないと思うが、良い予行演習になったのではなかろうか。

しかし、警報を無視してサーフィンをしていた人達もいたそうだ。
毎度のことだが、ルール無視で災難に遭うような人達は、救助すべきではないと思う。二次遭難や二次災害が起こるからだ。
ルール無視でやる以上、命がけでやってもらえばいい。止めることもないと思う。逆に、そういう自由もあって良いのではなかろうか。
日本の親切は束縛でもある。規制社会は発展しない。

衣食足りて礼節を知ると言うが、礼も節も形に拘ると規制になる。
人間、余裕ができると、無くても良い物を次々と作り出す。
高度成長下で生まれた、様々な団体や規制と同じで、人の心も気遣いでがんじがらめになってしまった。

規制緩和、天下り先の解体も重要だが、人の心も、不要な親切心や完璧主義を、ここらで見直す必要があるだろう。
何でもかんでも面倒を見てやろうという、教育ママのような、保護主義を捨てて、終戦直後の、誰も他人のことに構っていられなかった、原点の時代を思い起こしてみるべきだ。

非情になれというのではない。無用なお節介と束縛を止めた方が、個々の活力が生まれるはずだ。
「自己責任」とは、ルールを無視する人への解放の言葉で、ルールを守る人は社会が守らなければならない。どうもこの辺りが混同されているようだ。

近頃、「龍宮の使い」が深海から何匹も上がって来ているという。
地球の状況を見れば、どう考えても大地震は近い。いきなりの警報を出すより、大災害発生の臨戦ムードを漂わせて、日常的なチェックをしていても良いのでは無かろうか。どうも、不発の責任を恐れすぎている。日常的な注意報があれば、経済ロスも反って抑えられる。
地震は、どっかの国が攻めてくるより、よほど確かなことだし、防衛も外交努力も出来ない。これこそが常在戦場だ。

ところで「避難指示」はいまだに曖昧な言葉だから、「避難指示とは避難命令と同じ意味です」ぐらい言った方が親切だと思うのだが。