魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

無心のみ

2010年03月02日 | 占いばなし

このところオリンピックや、トヨタバッシングの話をしていたら、論調がナショナリストのようになってしまったが、個人的な郷土愛はあっても、占いの視点に愛国はない。
占い師に多い国粋主義は、運命論的保守感覚や、シャーマニズム的な神官のマインドから陥りやすいもので、占い研究とは関係ない。

占いにとって、国家や民族はむしろ研究対象であって、占いの視点は天地であり、見つめるのは人そのものだ。
国家のような人為的なくくりを基準にしていては、決して森羅万象の本質は見えない。
国は破れても山河は残り、人も民族も絶えず交わり移ろい、同じ人などどこにもいない。
占いの目は、杜甫や鴨長明の目線と、おそらく同じところにある。

しかし、生身の人間であることには変わりない。どこかに立ち、何かに感じ、思惑が動く。

占いを他人に聞かれると、おおむね妥当な判断が出来ても、自らテーマをたてて予測しようとすると、大抵外れる。
これは、個人の感情や欲望が願望となって、占いの達観を曇らせるからだ。占い師なら、株や競馬で大もうけしそうなものだが、そんなものではない。(したと言う人は、単なる自慢屋か占い商売の宣伝だ)

占い哲学の集大成とも言える易経では、これを厳しく説いている。
山水蒙」の卦の冒頭に
匪我求童蒙。童蒙求我。・・・とある。
(我より童蒙に求むるにあらず。童蒙より我に求む)

色々な解釈はあるが、
他人が本当に解らないときに答えるのであって、聞かれもしないのに答えるものではない。
つまり、占いに頼るのは本当に解らなくなったときで、必要もないのに占ってはいけない。占いを欲に使おうなどという下心があっては当たらなくなる。と教えている。
当然、興味本位や邪心による予想も、当たらなくなる。してはいけないことだ。
だから、予言のように、頼まれもしないのに吹聴することも禁じ手ということになる。

なお、このブログが星の動きで将来を考えているのは、予言ではない。「もしかしたら、こういうことかな」という、過去との比較考察だ。

さらに、「蒙」の卦は言う
初噬告。再三瀆。
(初噬は告ぐ。再三すれば瀆る)
無心で出す最初の答えが真実で、何度も聞かれて答えれば汚れる=無意味になる。何が何だか解らなくなる。
いずれにしても、欲が絡んだら占いは当たらなくなる。と言うことだ。