魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

別の目

2010年03月21日 | スタンス

占いでものを考えていると、アウトサイダーの目になる。
人間の決めたルール。好悪や善悪などの感情や主義。国家や民族のような枠組み。敵や味方。信仰と無信仰。

そうした、人間が生み出した文化の姿を取り去って、改めてその意味を考えてみる。モノの姿を考えるにはモノのないところから考えてみると良い。

人の世はすべて虚構であり、様々な苦悩は、元々は意に留める必要のないものだが、社会的な人間としては、その虚構から完全に離れては生きていけない。

自分の顔が気に入らないからと言って、首を切り落とすわけにはいかない。顔の善し悪しの基準に囚われ無ければ良いのだが、それを気に掛けて、初めて社会の一員であることを自覚できる。
若いうちは、自我を確立するために、自他を峻別したがり、社会を気にする。他人が許せなかったり、逆に自分が許せなくなる。

しかし、歳をとると、社会に対し、いい加減でなければ生きられないことが、だんだん解ってくるから「丸くなる」。

ところが、歳をとっても、根が真面目な人は、相変わらず色々な「許せないモノ」を持ち続ける。あれはケシカラン、こうであってはイケナイ、とこだわり続ける。
だが、実際は、自分自身を含めて、事実をそのように保ち続けることなどできない。だから、真剣でとんがった若者からは、うるさいことを言うだけの、二枚舌と反発される。

根が真面目でなくても、社会の立て前を代弁する立場についた人は、本当に二枚舌を使う。様々な「肩書き」のついた人は、肩書きの立て前において、いい加減になることができない。

宗教は、既存の社会規範に対して、別の規範を示すことで、既成概念に囚われた人を救おうとする。

しかし、占いで考えていると、その別な規範もバカげて見える。
だから、うるさいタイプの宗教は占いを排除しようとするのだろう。

老若男女にかかわらず、悩みに囚われた人には、悩みの元の社会規範から離れた視点「占い」思考をおすすめする。
宗教でもなければ、救いの特効薬でもないし、未来を的中させて一儲けしようと言うのでもない。

そもそも、「この状況は何なのだ」と考え直してみるのに、
占いの目は役に立つ。
また、「占い」は、そのように考えて関わって欲しい。