魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

昔には帰らない

2009年04月26日 | 日記・エッセイ・コラム

大阪で、また、子供が虐待されて殺された。
多くの動物は、新しい雄が現れると、前の雄の子供を殺してしまう。
人間でも、知的レベルが低ければ、似たような衝動が起こっても不思議ではない。

昔は、ままはは(継母)の「継子いじめ」が常識だった。
女が嫁ぐものとされていた時代は、子連れの母親の所に、男が転がり込むことはあまり無かったから、女が再婚するために、わざわざ子供を実家で引き取ったりしていた。だから、継父は少なく、いじめは継母と決まっていた。
つまり昔は、システム、慣習として、動物原理に従っていたわけだ。

しかし、人権が確立して男女が対等な「はず」の現代では、こういう現実の動物感情が無視される。

今回の殺された子供は、姉と双子のもう一人の姉妹から離されて、一人だけ引き取られていた。どうも、子供の幸せより、親の離婚の財産分与として引き取られていたとしか思えない。
事実、母親は大変可愛がり、タレント養成所に入れたりしている。
ペットと同じ感覚だ。

当然、新しい男が現れれば、じゃまになる。ペットを捨てる人がいるが、人間はそうも行かない。かと言って、もとの夫に返すのは自分のメンツが立たない。離婚のどさくさの中で引き取ったのだから、その意地が働く。

じゃまになれば、「困った子供」を何とかしてちょうだいよと、相手の男にまかせようとする。「しつけ」を委託された男は、悪気が無くても、思い通りにいかないと、だんだん憎らしくなってくる・・・

虐待のパターンは、だいたいこんなケースが多いようだ。

現実対応のシステム
現代社会には、子供のセーフティーネットが必要だ。
理想や理屈ではない。赤ちゃんポストは現実に必要なのだ。
それも、赤ちゃんだけではなく、様々な意味での成長阻害から救う仕組みが必要だ。

昔の大家族制が持っていた個人の監督指導は、束縛でもあったが、それを一度、解体した後、代わる仕組みが生まれてない。
核家族化によって、大勢の関わりで支え合う環境が無くなった以上、昔の社会が満たしていたものを、システムとして用意する必要がある。

それは、子供だけではなく、嫁姑の葛藤の中にあったような、人間造りの絶妙のバランスを補うものが必要だ。

駆け込み寺から、横町のご隠居に至るまで、ある種の権威や強制力を必要とする。
形だけの人権や自由を叫ぶことによって、本当の人権が阻害されている。

虐待Gメン
虐待の情報があっても、効果的な処置が全くとられていない。
虐待に関しては、かなり強い権限を持った虐待専門の調査官が必要だ。
ただし、これは、数を増やせば逆効果になる。

当事者に会って、一言、二言、口を利いただけで事態を見抜き、有無を言わせず、必要な処置をとれるような、スペシャリストは、そう育成できるものではない。

極論すれば、全国で10人ぐらいでいい。
情報が入りしだい、初動調査を担当する。
強い権限で黒と判定を下せば、後の確認、立証、措置は、それぞれ担当部諸、役所がやればいい。

中途半端に、様々な部署に権限や責任を押しつけても、宮仕えの人間が、責任逃れの事なかれを選択するのは当然だ。