魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

どうするどうする

2008年09月11日 | 星の流れに

世相史観は天王星の動き84年を中心に考えるので、干支の60年周期は参考程度だが、現象の相似という点では、結構うなづける。

今年2008の干支は戊子(=昭和23・1948年)
来年2009の干支は己丑(=昭和24・1949年)
再来年2010干支は庚寅(=昭和25・1950年)←朝鮮戦争
(朝鮮戦争の九星は五黄だったが、2010年は八白)

ここから、第二次朝鮮戦争を危惧しているが、
実際に戦争が起こるとは限らない。
現象としては「混乱」だ。
それがどういう混乱か、何によって起こるのか
漠然とイメージできても、焦点が絞れない。

その前の庚寅は、明治23年で、大事件は起こっていない。
朝鮮半島の混乱は、明治27年の日清戦争だが、この当時は慢性的に混乱が続いていた。

2008年戊子・一白
金正日、重病説によると、8月14日に倒れたとのこと。
月は山羊座で、表沙汰になって騒ぎが起きたのが9日から。
またも山羊座の月、しかも山羊座の木星の順行と重なっている。

重病説は5日頃の韓国からで、この日の月は朝鮮半島を表すサソリ座。
世界的に広まったのが、月が山羊座に入った日。
世界を変える冥王星が山羊座圏運行中で、そこに月が来た日に世界のニュースになることの重み。さらに、改善の木星も山羊座。
世界の現象と星の流れは、徐々に焦点が絞られつつある。

では、個人としての金正日はどうか
今年一白の年は、一白、四緑、七赤の人は転換点。金正日は四緑。
四緑の人が一番大きい転換点にいる。ちなみに、小沢一郎も四緑。

金正日の個人的な運としても、66歳は大きな転換点であり、十年持つとしても、これ以後、死に体になる。
今回は死なないだろうが(生死判定には生時が必要)、再来年の庚寅より、案外、来年の方が危ない。

ということは、
内部崩壊説の方が大きくなり、そこに、米中ロの駆け引きが絡んでくる図式だろうか。
昔から「三人旅の一人乞食」とも、三角関係のもつれとも言う。
二大国なら問題は起きないのだが・・・

それと、意外と見落とされがちなのが、
金正日がいるからまだマシで、帝王学を受けていない軍人が核管理をしたら何をするかわからないと言うことだ。


秋めいてきました

2008年09月08日 | 星の流れに

天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも

このスケールの大きな歌は、口にすれば目頭が熱くなる
中国と日本の空を一瞬にして超える仲麻呂の望郷が胸にせまる。

その日中を隔てる海で、連合艦隊は三笠を旗艦として日本海海戦に勝利した。

三笠フーズの農薬事故米の横流し
これは射手座現象だろうか、山羊座現象だろうか。
三笠山は若草山ではなく、春日大社の鎮守の森の春日山のことだ。

宗教、外国は射手座だが、神聖な山は山羊座。
山羊座の木星と、射手座の冥王星が順行を始めるこの時期。
どちらも影響しているようだ。
さらに、「三」は射手座。しかし、三笠フーズの社長は冬木三男。
「冬」や「北」は山羊座。  (冬柴、北島、北の湖、etc,)

冬木社長はすぐに謝って見せながらも、三笠フーズに吸収合併された宮崎一雄氏の責任にしようとしている。
これは名前からして、「三男」が長子とは考えられないし、「一雄」が弟妹とも考えられない。兄弟型による性格という点でも面白い。

「宮崎」は魚座+山羊座だろうと、前にも言ったが、宮崎氏の過去10年の運命が見えるようだ。

この事件のトバッチリをくらったのが、焼酎「薩摩宝山」
薩摩+宝山+焼酎 宝山は山羊座。焼酎は魚座。

しかし、薩摩は何だろう。これもやっぱり山羊座のような気がする。
桜島、島津が象徴だが、「桜」は魚座で、「島」は山羊座。
してみると、宮崎も鹿児島も、「魚座+山羊座」で、
鹿児島の方が山羊座の意味合いが強い。
今年の、宮崎あおいの篤姫がオリンピックより視聴率が良いなど、やはり薩摩の山羊座と、宮崎の魚座の相乗効果と見るべきだろう。

山羊座、魚座では、「崖の上のポニョ」と「アキレスと亀」も
「崖」は山羊座で、何度も言うように「亀」が魚座。「ポニョ」は当然、魚座。


あとで出てきた、浅井とか美少年など、山のマークだったのは驚いた

ところで、今年は一白の年。一白、四緑、七赤の人は転換点。
良かった人は悪くなり、悪かった人は良くなる。
ジョン・マケインは一白。
これまで良かったの、悪かったの、どっち?

一白の特徴は、女あしらいのうまいこと。


日系人

2008年09月07日 | 日記・エッセイ・コラム

昔、カナダの日系カナダ人の家でごちそうになった。
三世の友達の家だったが、二世のお父さんは
「日本人は、食後は漬け物とお茶漬けでしめるんだろ」
と言って、お茶漬けを作ってくれ、満腹だったが頂いた。
帰り際、
「日本のおもてなし、ありがとうございました」
と言うと、やはり二世のお母さんが、即座に、
「いいえ、これはカナダのもてなしです」
と言われ、猛烈に恥じ入った。

異境の日本人
異境の地にとけ込んで生きる、世界中の日系人の中に、日本の古い文化が息づいている。
それらはむしろ、今の日本に失われたもの、忘れられたものが多い。
日系人が郷愁と誇りとして抱き続けたものは、古き良き日本の面影であって、現実には存在しないアルカディアなのかも知れない。

異境の地で先祖のアルカディアを夢見るのは、日系人だけではない。
現代日本人も、また、同じ夢を見る。
時代による環境変化は、日本に暮らすわれわれが思う以上に大きい。

現代は、50年、100年前の日本人から見れば、まったくの異境だ。
われわれ現代人は、現代という異境にとけ込んで生きている日系人であって、外国からのイメージ、あるいはわれわれ自身が思い込んでいる日本人像とは大きく変質している。

つまり、どこに住もうとも、時間・空間を超えて、われわれは互いに異境に暮らす、同じ祖先を持つ日系人なのだ。

日本人を日本人にするもの
古き良き日本のイメージは、それぞれの立場でずいぶん異なっている。
今の日本人が、昔の日本に持つイメージは、思い込みや思い入れで、ずいぶん危険なものや滑稽なものまで、実に多様だ。

しかし、そうして互いはピント外れでも、日本人が千年以上にわたって、日本列島で培った「心」は、「日本人らしさ」として、いまや世界中で息づいている。
それは、聖書やコーランを必要とするわけでもなく、日本の旗を振り回したりデモをするわけでもない。親から子に黙々と受け継がれる「心」によってなりたっている。

その、黙々と生きる姿と、世界に残す実績によって、日本人が認められ尊重されて来た。
西欧流を見習って、腕力に頼ったことは禍根にしかならなかった。
日本国という「形」を世界に売り込もうとしたことはすべて失敗だった。中にはその国威を笠に着て、世界で狼藉を行った者もいる。

しかし、国から離れた異境の地で、日本人として「恥」ない生き方をしようとしてきた、日本的な努力が今、世界の文化や生き方に、大きく貢献している。
現在、日本人が世界から評価されていることは、ほとんどすべて、日本国家とは関係ない、一人一人の生き方であり、その生き方を育くんだものは、島国日本の伝統文化だった。

これから先も、日本人が日本人を売り物にすることはないだろう。
「美しい日本」とか「日本認定」とか叫ぶ国家の存在は、嫌みでこそあれ、何の足しにもならない。
誰かの努力の結果に便乗して、勲章を授与して回る人気取り政治家が世界に何を貢献しているのか、いくら考えても思いつかない。


長子と弟妹 5-③

2008年09月06日 | 兄弟関係

投げだし
福田退陣に「無責任」論ばかりが出ているから、
あえて、違う観点で見てみたい。

野球なら
9回表、3-0
ノーアウト、フルベース、0-ストライク/3-ボールで、
マウンド上で失神したピッチャー、安倍に代わって、
急遽、ウォーミングアップもせずに出てきた、
引退寸前のベテラン投手が福田だ。
誰も期待していなかった。

ホームランならまだ良かった、投げても投げてもストライクが入らない。押し出しで2点が入ると、観客がぞろぞろ帰り始めた。
もう投げる投手はいない。監督は明日の試合に温存している。
それでも、顔色一つ替えず、淡々と投げ続けた。

ようやくアウト一つ。
キャッチャーの公明まで、時計を気にし始めた。

マウンド上で考えた・・・
このままズルズル行っても、打たれても、大敗は同じだ。
こうなれば、俺の仕事は明日の試合のお膳立てだ。
中途半端に粘るより、派手に負けた方がいい。

わざと甘い球で、ホームラン
走者を一掃すると、
ポンポンとアウトを取って引き上げた。
9回裏、10-0
後は監督が、さえない打線の調整をすればいい・・・

安倍と福田
二代続いて政権投げ出しと言われているが、全く意味が違う。
安倍は、有り余る好条件の中、リリーフで出てきたが、速球だけに頼った独りよがりのピッチングをして火だるまになった。
挙げ句の果てに、マウンド上で失神。死んだふりで逃げ出した。

福田は二代総理という、夢と言うより宿命的な強迫観念で、急場を引き受けて総理になった。
ヴィジョンがあるわけでもなければ、野心があるわけでもない。
「どうなるか解らないが、やれることをやってみよう」ぐらいの気持ちだった。いい加減な気持ちではない、緊急事態には「誰かが火中の栗を拾わなければならない」という、ある種の責任感だろう。
「しんがり」を引き受けたものの「戦況必ずしも好転せず」、死に場所を探したあげく、民主党の代表選挙に体当たりして討ち死にした。
「あなたとは違うんです!」とは
「安倍さんとは違うんです」という意味でもある。


回る回る、世界は回る

2008年09月05日 | 日記・エッセイ・コラム

木星・冥王星の9月再始動は、もう動き始めたようだ。
冥王星はあまり表に出ないが、教員試験や相撲のことなど射手座に戻った影響もある。
全体の動きから。後半はやはり昨年後半と似たようなことになると思うが、昨年後半、どんなことがあったか、もう、あまり覚えていない。

自民党は、またも総裁選で人気回復をと、同じようなことをしているが、デジャブ、柳の下にドジョウはおらぬ、仏の顔も三度、オオカミが出た、亭主の好きな総裁戦・・・

まさに茶番だ。いったい日本国民は、こんなことに何度も騙されるほどバカなのだろうか。それとも、日本国民が選んだ政治家は日本国民の心が解からないほどバカなのだろうか。早く結果が見たい。
しかし、例え日本国民が政治家の愚かしさを解っていても、選択肢がなければどうにもならない。
民主党は、自民党の茶番にさえ手を打てないというのだから。

維新じゃ、維新じゃ
明治の日本は荒削りで、今日まで続く弊害も多く遺したが、大仕事をした。怖いもの知らずの若者パワーが、過去を打ち壊して、近代化をやってのけた。
黒船・明治維新から約150年。新憲法からでも60年が過ぎた。
世界秩序も大変動を起こしている。
もう、旧態を打ち壊すだけが政治の仕事だ。
それができるのは、若者の「怖いもの知らず」パワーしかない。

政治家の年齢制限は、下限ではなく上限を決める方がいい。
立候補を40歳までにして、40歳以上の後見人とセットで立候補する。力のある若者は後見人の発言権を押さえるだろうし、力がなければ後見人が機能する。

しかし、やはり、何と言っても、若者層自らが政治に参加しなければ本当の改革にはならない。
アフガニスタンで倒れた伊藤青年のように、海外協力に出て行く若者は確実に増えている。それだけ若者の目が世界に向けられているということだ。
幕末の脱藩浪士と同じように、せまい領国なんぞに興味がないということなのかも知れない。当時も、日本や世界に目がいかない藩政は死に体だった。

藩から国家へ、国家から世界へ
NGOは世界のために働く。そのNGOに対して、協力的な国家と非協力的な国家がある。
幕末に、若手藩士と連携して動いた藩と、何とか若手を押さえ込もうとした藩があった。
藩は自らを守ろうとするが、何によって守ろうとしたのか、それはヴィジョンの違いだった。
時代は、否応なく世界へと進んでいる。それぞれの国家が、どういうグローバル・ヴィジョンを持つかが、将来の地域を決定する。
もはや、藩政・幕政の茶番などどうでもいい。


3年目

2008年09月04日 | 日記・エッセイ・コラム

考えてみたら、このブログを始めて、9月2日でちょうど2年になっていた。
少しずつだが、見ていただく方も増えているようだ。

ところが、どういうわけか、ブログを書いているうちに、友人知人からのメールがめっきり減ってしまった。
よほど、気に入らないことばかり書いたのかも知れない。
それとも、本性がバレて、あいそを尽かされたのかも知れない。

酔っぱらった翌朝、
『何か、まずいこと言ったんじゃないかな』
と、後悔するような、気まずい気持ちになるが、(これで酒を止めた)
それでも、めげずに書こう。

占いという、世間の裏側からの視点も、あって良いんじゃないかと思う。
何の儲けにもならないが、勝手に使命を課して書く。

メールが来なくなったのも、きっと、ブログを見て「生きてるな」と、安心して貰っているからだろう・・・そう考えることにした

ところで、このブログでは、自分の占いデータは基本的に上げないことにしている。
本来、いくらでも正直に言うが、読む人に先入観をもたれても困るからだ。
占い的な分類では、いずれのキャラクターが良くて、いずれが悪いというようなことはない。
それぞれ一長一短で、それが互いの好き嫌いになるのだが、中立の立場から見れば、タイプに善し悪しはない。

だれかをほめている時には、例え言い忘れても、必ず問題点はある。逆もしかり。
魯生の場合、自分のことを表明してしまうと、過剰に非難しなければならない強迫観念を持つので、それでは同じ星の人に失礼だから、表明したくても表明できない。
この逆に、某有名女史などは自分の星を徹底してほめているが、それでは素人だ。

また、占い師の中には、星を裏読みされて他人に陥れられては困ると、自分のデータを証さない人もいるが、そこまで占いを信じていないし、仮にもしそうなら、返し技をかければよいだろう。


長子と弟妹 5-②

2008年09月03日 | 兄弟関係

長子型の開拓心、弟妹型の冒険心
長子型が必要とあれば初めてのことでもチャレンジするのに対し、弟妹型は二番煎じが得意だ。実際、二番煎じの方が結果を出す。
逆に、長子が躊躇してできないことを、弟妹型、特に、末っ子は飛び込む。
長子が、方法論と管理にこだわるのに対し、末っ子は捨て身だ。やってみてダメなら止めればいい。弟妹型は臨機応変を重視する。

試行錯誤しながら「初めて」に挑む長子型は、声を上げず、用心しながら、ひたすら事の成就を追求する。
この黙々の努力は、何事も体当たりする弟妹型の目には見えない。
だから、いつの間にかチャッカリうまくやっているように映り、何であいつばかりいい目に会うんだと不満に思う。実はチャッカリ方式は弟妹型のものなのだが。

長子型にとって努力するとは、創意工夫、勇気、試行錯誤の忍耐だが、弟妹型にとって努力とは、人への気遣い、状況変化への気配り、先輩や上司への忍耐、新方式の積極採用、そして根性だ。

だから、弟妹型から見ると、長子型に対して、
「何であんなパッとしない、無神経KYで生意気な、性格の悪いヤツがうまく行くんだ」ということになる。

ところが、長子型から弟妹型を見ると、
「自分は何一つ努力をしないで、人のすることに便乗し、良いとこ取りをするくせに、文句ばかり言っている」ということになる。
さらに、長子型が我慢できないのは、愛想良く近寄ってくるくせに、都合が悪くなると、さっと居なくなってしまう現金さだ。

スポーツと芸能
スポーツ選手は弟妹型の方が成功する。
長子が手探りで始めたことを、見ていた弟妹が同じように、もっと幼い時から迷いなく練習を始めることが大きい。長子はその道を放棄する場合もある。(長子は常に開拓者)
ただし、親がやっていたことを長子にさせた場合は、長子といえども弟妹と同じように有利になる。しかし、嫌々やらされた場合は、やはり弟妹が有利になる。

芸能人の場合、技術より個性だから、長子が成功して弟妹を引き上げても、たいていの場合うまく行かない。特に姉妹の場合、姉が売れて妹が出てくるケースが多いが、一時期は売れても結局、姉だけ残る。
個性は、努力やガンバリで身に付くものではないということだろう。
ただし、兄と妹の場合は妹が売れる場合が多々ある。ニーズの違いだろう。伝統芸能はこの限りではない。

農耕民と遊牧民
植物を種から育てる長子型を農耕民とすれば、弟妹型は遊牧民だ。遊牧民は馬や羊という生き物がいるから生きられるし、時に農耕民という生き物を食い物にする。弟妹型の方が「意志あるもの」の扱いがうまい。

長子型が空気を読まないのに対し、弟妹型はまず空気を読む。
弟妹型は自分が何をするかではなく、誰が成功しているかに注目し、まずそこに接近していく。
プロセスより結果に目がいく。とにかく成功者の周辺に居れば何らかの利益があるから、キラ星が集まるところが大好きで、そこに参加しているだけで、自分も星になったような気がする。選手より大騒ぎする応援団、お祭り人間だ。

長子はお祭り好きではないが、役目は果たそうとする。
若貴の例でも、長子の若乃花が役目・義務として葬儀を仕切ろうとしたのに対し、弟の貴乃花は見せ場の権利として仕切りたがった。

長女によくあるトラブルで、実家の一大事の時、突然出てきて仕切り始めることがある。特に母親の葬儀など、喪主の弟を差し置いてあれこれ指図してよけい混乱することになる。
長女には、第二の母親としての責任感がたたき込まれている。

長子は他人の成功を評価するが憧れない
よく、結果を出した人に、「流石ですね」とか、「プライドに賭けて負けられませんね」とかインタビューすると、どう答えて良いか困ってしまう人がいる。長子型だろう。
「流石」のような立場関係を意識してやっていないからだ。

だいたい、そうでなくとも長子型はインタビューにうまく答えられない。自分の行動を人に説明するクセが付いていない。
しかし、自分の世界でしゃべり出すと演説になり、その失言が多い。

これに対し、弟妹型は発表したくて仕方がない。人に評価してもらって自分の価値が決まる。常に人を意識している。
鳩山邦夫の「アルカイダ」は、自分はすごいものに縁があるんだぞと自慢したかっただけだ。
子供の頃にはよく、けんかの強い兄を自慢したい末っ子が、大きい子にけんかをふっかけて、兄が加勢に来たらもっと強いやつだった。といったことがおこる。

長子は競争心が育たないから、他人が成功しても弟妹のようには焦らない。他人の成功に関心がないから感心もしないし、褒めることもしない。しかし、評価はしているから、世慣れてくると褒める。
それでも、あくまで評価であり、心酔することはないから、その人を目標とし、その人を超えようとはあまり思わない。自分は自分の道をがんばるぞと心に決める。
これに対し、弟妹型は目立っている人に憧れ、自分の目標とし、その偉大な人を超えようとする。憧れの人に会って口もきけなくなるのはほとんど弟妹型だ。

競争心でのすれ違い
弟妹型が自分の成功を長子型に自慢して、長子型がどう対応して良いか困ってしまうことがよくある。
長子型としては、直接対決で負けたわけでもない、異次元のことなのに、どう認めて良いか解らない。弟妹型としては、とにかく自分の行動の価値を確定して貰いたい。相対的行動を普遍的価値にしたいから、自慢という形で確認を迫る。


長子と弟妹 5-①

2008年09月02日 | 兄弟関係

何度も言うのだが、兄弟関係論は、弟妹型の人にはあまり意味がない話かも知れない。
弟妹型は実用主義で、四択のコツには興味があっても、問題の考え方にはあまり興味がない。
だからと言って、長子型の人だけに話したのでは、双方の視野が理解されない。対比させながら考えたい。

また、長子型、弟妹型という場合、必ずしも長子、弟妹のことではない。環境によっては長子でも弟妹型になる場合がある。(長子と弟妹4
タイプの違いには、一長一短がある。どちらが優れていると言うことはない。
ここであえて型とするのは、社会や年齢で上下が逆転しているケースも多いからだ。

誤解
ものごとは、同じものを見ていても、人によって違うものに見える。
それは、理解の仕方が違うからだ。
理解の仕方は、その人の性格や価値観が反映する。

「登り坂で車が加速するのは、他の車に抜かれたくないからだ」
と言う人がいて、何と負けず嫌いな人だろうと驚いた。

確かに、そう考える人もいるだろうが、単純に、登り坂ではスピードが落ちるから、皆がアクセルを踏むのが原因だろう。
「遅くなったら後ろの車に迷惑をかける」と思う人もいれば、同じペースで走りたいだけの人もいる。
減速不安でアクセルを踏めば、元のスピードより速くなる。
すると、ペースを合わせようと、他の車がまたアクセルを踏む。
そんな悪循環の中で、中には、負けん気を起こす人もいるかも知れないが、その人が意地になるほど周りは気にしてない。

人はそれぞれ自分の思いこみで理解する。
「すごいなー!」とハモっても、何が「すごい」かは同じではない。

実際、自分の言動を、思いがけない理解をされて困ったことは、誰でもあると思う。

長子と弟妹は、異次元に住んでいる
世の中に、長子型と弟妹型の間の誤解は、想像以上に多い。
長子型は唯我独尊だから、周りを気にしていない。
ところが、弟妹型には、まず周囲がある。

よくあるトラブルは
長子型の勝手な気遣いと、弟妹型の過剰反応だ。
長子型は勝手に相手の処遇を決めてしまい。一方で、
弟妹型は「命令された」「無視された」「冷たくされた」「だまされた」と、被害者意識で受け止める。

弟妹型は誰かに反応して動く。
大げさなアクションも、自分の言動への反応を観測するためだ。だから、弟妹型の方が表だって仕切りたがる。
長子型が仕切るのは「決定」だが、弟妹型が仕切るのは「観測」だ。
弟妹型は、周りの反応を手がかりに次の行動が生まれるが、何もなければ、動きようがないので、最初からそのテーマを捨ててしまう。

関係主義の弟妹型は「なんだ、えらそうに」「口の利き方が悪い」など、外見的なことで腹を立てるが、実は自分はもっと「えらそうに」する。ただし、中間児型は腹にためる。
逆に、相手から厚遇されると、過剰に喜んだり、感謝したり、得意になる。それで、期待を裏切られると、また、恨むことになる。

これと比べれば、長子型は反応が鈍い。喜びも、怒りもしないので、弟妹型の人間から見れば「可愛げが無い」「KYだ」「冷たい」ということになる。長子は、何事も個人的問題だから、良いことも悪いことも、誰かのせいとは思わない。

弟妹型は寂しがり屋、長子型は義理人情
弟妹型は何事も自分が決定していると思っているが、実は相手の出方で決定している。
別れ話も、自分の判断や都合で別れるのではなく、相手の仕打ちにしかたなく別れたり、他の人が現れた時に別れる。そして、長子型のように、淡々と一人で居ることができない。たとえ猫でも居て欲しい。
しかし逆に長子型は、泣きつかれれば弱いし、別の人が現れたからといって別れられない。ただし弟妹型のように、相手次第でズルズルとは付き合わないし、別れた人に(筋として)再び声をかけられない。弟妹型はあわよくばという気持ちがある。(原理の長子と成り行きの弟妹)

政治家の長子型と弟妹型
弟妹型政治家と言えば、小泉純一郎、安倍晋三、鳩山邦夫
長子型は麻生太郎、福田康夫、小沢一郎(一人っ子?)
この例でも、弟妹型は好んで父兄の仕事の後追いをしている。
(長子型は責任として跡を継いでも、実は継ぎたくない)
福田康夫の無気力はいかにも長子のイヤイヤ総理だ。政治家にはなりたくなかったが、跡継ぎ責任として政治家になり、跡継ぎとしての総理職に義務的に就いた。(国民としては迷惑な話しだが)

麻生の場合は、むしろ政治家が跡継ぎからの脱出だから元気だ。リーダーシップはあるが、長子型は倒れるまで引けない。橋本龍太郎辞任時の表情は長子の断末魔の顔だ。
福田退陣は「主権」を守るために、自分で辞めることにこだわった。
麻生、橋本ともに、風貌態度にクセがあるが、福田にはないように見える。しかし、サラリーマン風を貫いたのも一つのクセだ。
長子型が個性的(KY)なのに対し、弟妹型は芝居がかっている。

麻生の失言は傍若無人の結果であり、同様に、福田の「せいぜいがんばって」もKY発言だ。(責任の重圧を知る長子としての気遣いなのだが)
一方、弟妹型の失言では、鳩山邦夫の「アルカイダ」は目立ちたがりの発言であり、死刑執行の「英断」も法務大臣「らしくしたい」の行動だ。

長子型は批判されても態度は改めないが、内心反省し懲りる。
弟妹型は批判されると、状況に即応し、「冗談、冗談」とごまかしたり逆ギレしたりする。表面はすぐ改めるが、内心は全く懲りない。
安倍晋三はヨレヨレの後でも、「何かありましたか」と出て来ている。
中間児型の小泉純一郎は、責任逃れの引け時を心得ている。