さて、
家と言っても、昔の日本民家は密室性は無く、四方が開放的な造りで、常に近隣から監視されている。近所の人も勝手に上がり込んだりする。村や地域を一つの家とすれば、ただの部屋のようなものだった。
また、町屋のように、入り口に接客スペースが設けてある家では、女一人の時に奥に入れる必要はない。むろん武家の屋敷などは中にはいることすらできない。小間物屋などをのぞけばだが。
ところが、戦後の核家族化で、家の規模が小さくなり、家は夫婦とその子供のために造られ、密室性も高まった。
「親子三代」ではない核家族のマイホームとは、マイルームであり、卵を育てるだけの巣。ベッドルームになってしまった。
そういう空間に他人を入れることは、ベッドルームに入れることのような一般常識すら生まれてきた。
だから逆に、そんな空間に他人が入ってきただけで、住人自身も
「ちょっとだけよ~」みたいな、感覚になってしまうこともある。
セールスマンを上げてお茶を出す若い主婦は
昔の開放的な民家のもてなしと、核家族の家との区別が付かず、
お茶も出さないでは失礼と思い、上げるのだろうか。
まあ、近頃は事件が多いので減ったとは思うが、
それでも、二、三度来て顔なじみになると、「お茶も出さないで」は悪いような気になるのかも知れない。
責任の自覚
昔は、女は家に縛られ、男は社会に縛られていたが、その束縛がなくなると、建て前やルールではなく、それぞれが自分を律していかなければならなくなる。
浮気をしたら姦通罪で、二つに重ねてバッサリ・・・はなくなった。
人権社会では、互いの自覚。信頼や尊重だけが浮気を防ぐ方法だ。
つまり、昭和30年代、くだんの大学教授夫妻は、まさに、この問題が起こりつつある時代のトップランナーだったと言うわけだ。
対等な関係
何事もそうだが、ほとんどの人が旧概念から離れられないものだ。
「犯されそう動」の教授夫人も、自分の意識の旧態を棚に上げて、進歩派の夫に不満を言っている。
自分が招いた「かもしれない」失態を、夫に責任をとってくれ、守ってくれと言っている。
この事件を見ると、当時としてはこの夫は、妻をそうとう自由にさせている。保守的な男なら、男に飛びかかるかも知れないが、妻も許さない。第一、男が上がり込むような環境を許さない。
こういう自由な環境におかれた妻は、夫の信頼に応える自律心を期待されている。つまり、夫は対等な関係を理想としている。
自由であることは自分に責任を持つことだ。法治社会では、男に守って貰わなくとも、女も知恵と自覚で自分を守ることができる。
「強い男が女を守る」という美意識は、原始的な男社会のものだ。
自分は自由にしながらも、束縛を前提とする旧式の保護を求める矛盾に気がついていない。
結局、束縛されたいのか、それとも女王様になりたいのか。
こんな矛盾した話は、「女性の」権利を叫ぶ人達からよく聞かれる。
「か弱い女性に対する横暴」のような、被害妄想的な男権批判は、自分に内在する差別意識のあらわれだ。自分がか弱い女になりたがっているのだ。
何とか女史のような古いタイプの女性運動家は、その人こそがジェンダーの女であり、「男は強く女は弱い」という固定概念が根底にある。
現代の若い人にはこういう被害者意識はなくなったが、逆に、くだんの教授夫人のような、ご都合主義の「女と女性」を、上手に使い分けるようになった。
男に力や金を出させて、権利の主張では女王様になる。