魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

屋敷の中 6

2008年09月20日 | 結婚コン

社会的規範と文化的規範(常識と個人の価値観)
互いの常識と価値観が一致すれば、初めて「和姦」が成立する。

猫の交尾の「ギャギャッ」という探り合いは、人間なら互いの社会常識の確認とマッチングで、最終段階の「ウギャギャギャギャ」は「手を出す」段階の価値観とフィーリングの調整だ。

この最終段階での失敗が増えたのは、男女が対等になり、個人の価値観が優先し、薄くなった常識が簡単に破られるようになったからだ。
「成田離婚」なども、最終段階の「ウギャギャギャギャ」で失敗した例といえる。(その前に充分コトは出来ていたとしても)

婚姻制度の崩壊
日本の民主化に伴い、「足入れ婚」というものが女性蔑視の象徴としてヤリ玉に挙がった時代があった。簡単に言うなら、労働力としての嫁の試用期間で、嫁ぎ先の家にそぐわなければ、「帰らせる」ことになる。
今から考えればとんでもないことのように思われるが、「成田離婚」の多くは女の方から「帰らせる」、逆の足入れ婚と言える。

「成田離婚」のようなものは、すでにその前からあった。
性の不一致が離婚理由として話題になる少し前から、恋愛結婚が主流になるに伴い、恋愛と見合いを両天秤にかけて結婚するケースが増えていた。

ラチのあかない恋愛から、打算的に見合い結婚をしたものの、やっぱり結婚相手では納得できない。
そういう事情から、女の方から何のかんのと理由をつけて離婚してしまう。
女の自立、経済的可能性が広がるにしたがい一般化していき、「成田離婚」にいたると、まったく女の側の「足入れ婚」に逆転した。

しかし、これはまだ、旧来の結婚が必要と信じられていた時のことで、今日の「里帰り離婚」のような時代になると、子育てのために安定した結婚が必須とはならなくなった。
そして、子育てや結婚のあり方は、現代のファッションのように百花繚乱。何でもありで、これでなければならないと言うことはない、掟破りの過渡期の時代になった。

結婚式をしても、実生活のアプローチで失敗する「成田離婚」時代から、しばらく結婚生活をしても簡単に離婚する時代になった。
もはや、結婚の概念は失われているにもかかわらず、法律はようやく、夫婦別姓や300日規定がどうのといっている。

医療や経済が、根底から激変している時代。未来を見越した、柔軟性のある子育てと結婚(保障)のあり方が議論されても良い頃だ。

アプローチ
猫の「ウギャギャギャギャ」は、人間の結婚、性を伴う実生活の合意の最終アプローチと考えることができる。
当然、結婚以前の男女の一対一のアプローチの方がもっと基本だ。

それを考える前に、男の本音は「誰とでもやりたい」ということを大前提としなければ、話しは始まらない。
男は口では色々ケチをつけるし、実際そう思いこんでいる人も多いが、究極の本音は、やれるなら「誰でもいい」。

「男の人って誰でも良いの!?」という女の驚きは、男を自分と同じとして考えるからだ。人権は対等でも、生理は違うと言うことを知る必要がある。(そう、男は誰でも良いのだ)
DNA選択において、女は失敗は許されないが、男は数打ちゃ当たる、後は野となれ山となれ・・・という、両性の衝動の違いがある。

もちろん、人間社会では、この本音はタブーになっている。
時代や地域によって違っても、秩序のための理想のモラルがある。
昔気質の九州の代議士が「女は家で子育てが一番幸せだ」と言ったことも、「育児協力のための男の子育て休暇」もそれぞれ正論だ。
しかし、これらは時代による衣装であり、裸の男女を隠している。

男女のアプローチはこのような、常識と文化の服を脱がせるのか着たままなのかによって、思わぬ展開をしてしまう。