魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

屋敷の中 3

2008年09月17日 | 結婚コン

教授夫人の言う「犯されそう」とは、何のことだろう。
古来、強姦と和姦の境目ほどムズかしいものはない。

猫の交尾を、二階から見ていたことがある。
朝からワーオ、ワーオとうるさいので、のぞいて見ると、コの字に囲った塀の上で、互いに距離を置いて鳴きあっている。
鳴いては所を替えながら、そうとう長い時間を経て、オスが徐々に近づき、やがて接触しようとすると、メスが「ギャギャッ」と抵抗して寄せ付けない。こんなことを何回も繰り返し、最後には大抵抗の「ウギャギャギャギャ」もかまわず、オスが乗りかかると、何のことはない、静かな時間を過ごしているのである。
これは、強姦だろうか和姦だろうか

自由恋愛型の猫に比べ、犬はお見合い型だ。
1973年の動物愛護法以後、犬が町を自由に歩けなくなった。
このため、犬のコミュニティーが無くなり、猫のように勝手に繁殖することができなくなった。

だから、子供の頃の記憶しかないのだが、
犬はグループ内の総意によって結婚が許可されるらしい。互いにOKでも、序列や合意があるらしく、終始、取り巻きが見張っている。
あまりに昔の記憶なので、実はしくみが良くわからない。

いずれにしても動物は、メスが積極的な交尾をすることはないようだ。
しかし、霊長類になると、猿などはメスの方から誘ったりすることもあるようだから、さらに複雑な利害がある人類では、文明的交尾方法として、双方の合意を条件とする。

猫が呼び交わし、一定の時間と空間を共有して、ことに及ぶのは、興奮レベルの調整をしているのではないかと思う。つまり、テクニックの問題だが、それ以前に、どの動物も発情確認をする。
発情をしてないメスに仕掛けようとすることは、まさに単なる暴行で、メスは死にものぐるいで抵抗するから、オスにとって何の得にもならない。動物はそんな不合理なことはしない。まして、共謀して輪姦などしない。哺乳動物は一対一だから、抵抗されては自分も危ない。

発情動物
人間の場合、常時、発情期状態だから、動物のように発情期を確認する必要はない。肉体的な絶対条件を超越しているから、性を手段とすることができる。目的に応じて自由に使うことができる。
売春、政略結婚、美人局、貞操と浮気・・・頭の切り替え次第だ。
(この点では、どうも女の方が明らかに有利のようだ)

猫の「ワーオ」の代わりに、人間は知的に理解をする。
様々な状況を理解し、必要と認めれば何時でも行為できるのだ。
そこで、社会秩序の維持のために、婚姻制度を設け、愛という触媒を生み出した。
もちろん、愛情そのものは結婚と関係なく存在するが、婚姻秩序を成り立たせるため、愛を理由としたにすぎない。

世間では、愛情の完成形として結婚があるように思われているが、愛情と性は一致しても、結婚は単なる秩序の一形式で、何ら関係ない。

母系の妻問い婚などの結婚は結果であって、結婚式などは後で加わった形式だろうと思われるが、定かではない。
重要なことは、男女が認め合い接近し、同じ空間を過ごす。
そして、その間に、互いにその空間を所有しあうことが出来るか確認する。相手がじゃまな存在でないか確認する。
その結果、相手を必要とするのではなく、相手との「空間」を大切なものとして必要とするようになれば、それが結婚ということになる。
「場」を最重要とするのが農耕民のあり方なのだろう。

これに対し、二人で移動していく遊牧民の結婚は、相手「個人」との結び付きが重要になる。それが今日の「愛してる」の確認を常に必要とする、恋愛、結婚の常識になっている。

戦後、アメリカから持ち込まれた、小家族法が核家族文化をうみ、今では、ほぼ完全にこれが常識化した。
しかし、日本の文化の根底には、農耕文化が根強く流れている。
それが、遊牧民的愛情表現で恋愛、結婚をしても、結局、農耕民的家族観で子育てをする「里帰り離婚」につながっていく。