魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

日系人

2008年09月07日 | 日記・エッセイ・コラム

昔、カナダの日系カナダ人の家でごちそうになった。
三世の友達の家だったが、二世のお父さんは
「日本人は、食後は漬け物とお茶漬けでしめるんだろ」
と言って、お茶漬けを作ってくれ、満腹だったが頂いた。
帰り際、
「日本のおもてなし、ありがとうございました」
と言うと、やはり二世のお母さんが、即座に、
「いいえ、これはカナダのもてなしです」
と言われ、猛烈に恥じ入った。

異境の日本人
異境の地にとけ込んで生きる、世界中の日系人の中に、日本の古い文化が息づいている。
それらはむしろ、今の日本に失われたもの、忘れられたものが多い。
日系人が郷愁と誇りとして抱き続けたものは、古き良き日本の面影であって、現実には存在しないアルカディアなのかも知れない。

異境の地で先祖のアルカディアを夢見るのは、日系人だけではない。
現代日本人も、また、同じ夢を見る。
時代による環境変化は、日本に暮らすわれわれが思う以上に大きい。

現代は、50年、100年前の日本人から見れば、まったくの異境だ。
われわれ現代人は、現代という異境にとけ込んで生きている日系人であって、外国からのイメージ、あるいはわれわれ自身が思い込んでいる日本人像とは大きく変質している。

つまり、どこに住もうとも、時間・空間を超えて、われわれは互いに異境に暮らす、同じ祖先を持つ日系人なのだ。

日本人を日本人にするもの
古き良き日本のイメージは、それぞれの立場でずいぶん異なっている。
今の日本人が、昔の日本に持つイメージは、思い込みや思い入れで、ずいぶん危険なものや滑稽なものまで、実に多様だ。

しかし、そうして互いはピント外れでも、日本人が千年以上にわたって、日本列島で培った「心」は、「日本人らしさ」として、いまや世界中で息づいている。
それは、聖書やコーランを必要とするわけでもなく、日本の旗を振り回したりデモをするわけでもない。親から子に黙々と受け継がれる「心」によってなりたっている。

その、黙々と生きる姿と、世界に残す実績によって、日本人が認められ尊重されて来た。
西欧流を見習って、腕力に頼ったことは禍根にしかならなかった。
日本国という「形」を世界に売り込もうとしたことはすべて失敗だった。中にはその国威を笠に着て、世界で狼藉を行った者もいる。

しかし、国から離れた異境の地で、日本人として「恥」ない生き方をしようとしてきた、日本的な努力が今、世界の文化や生き方に、大きく貢献している。
現在、日本人が世界から評価されていることは、ほとんどすべて、日本国家とは関係ない、一人一人の生き方であり、その生き方を育くんだものは、島国日本の伝統文化だった。

これから先も、日本人が日本人を売り物にすることはないだろう。
「美しい日本」とか「日本認定」とか叫ぶ国家の存在は、嫌みでこそあれ、何の足しにもならない。
誰かの努力の結果に便乗して、勲章を授与して回る人気取り政治家が世界に何を貢献しているのか、いくら考えても思いつかない。