魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

屋敷の中 7

2008年09月21日 | 結婚コン

セクハラ社会
男女が密室に二人でいるからと言って、性行為が許るされるものではない。互いが関心のない場合は言うに及ばず、たとえ一方がその気でも、モラルという常識が双方を規制する。
一対一だろうが多人数だろうが、公の関係は同じなのだ。

男尊女卑の時代は、女は男に顔さえ見せてはいけなかった。
やや解放された時代になっても、夫以外の男と二人きりになるなど、もってのほかだった。
そういう時代や、そういう古い価値観が残る時代では、女が二人きりの場に来ること自体が「OK」の合図だった。

だから、平時に女が「犯される」ようなことがあると、女の方がモラルを破ったことになり恥とされ、非難された。
また、逆に、二人きりの状況にもかかわらず、手を出さない男は「据え膳食わぬは男の恥」とされ、その気でいる女に手を出さないのは、女に対して失礼だとさえ考えられた。
秩序モラルが安定していた時代は、とりあえず、解りやすかった。

女の権利が認められるようになっても、古い価値観はそう簡単には切り替わらず、「強姦か和姦か」の騒ぎが頻発した。
新憲法60年を経ても、警察のような古い体質モラルを始めとして「女にその気があったんだろう」という偏見があり、そういう価値観で痴漢検挙などをすれば、今度は逆に過剰な性悪説に走る。

これは、人権と男女の対等なあり方が理解されていないからだ。
〇〇ランドや〇〇サロと会社を行き来しているサラリーマンの感覚も大差ない。大なり小なり、金で女を買えると思うこと自体は同じだ。

もっと言えば、物をプレゼントし合うことが愛の証しになると考えることが、人権から遠いのだが、その大間違いが見過ごされている。
男女お互いが理解し合うのに、歌や言葉や手作りではなく、指輪やバッグでなければならないとすれば、羊何頭で嫁に貰った(嫁を買った)聖書の時代と何も変わらない。

人権論と人買いが、いまだに同居している現在。男女の駆け引きは錯乱だらけだ。

思いがけない展開
そんな社会の男と女が、公的立場で二人きりになれば、錯乱はピークに達する。
社長と秘書、教授と助手など、相思相愛の場合もないことはない。
力のあるオスに惹かれ、繁殖力のあるメスに惹かれるのは動物として自然だからだ。

しかし、人間の力は多様で、若い女がボスの実力を評価するとは限らない。公的立場は力関係に縛られているとしても、価値観は遙か遠くにいる。
にもかかわらず、ボスが公的力関係を人格支配と錯覚すれば、「手を出す」ことが許されると錯覚する。
もし、拒まれた時に立場・権力をちらつかせれば単純にセクハラだが、普通は搦め手で行く。

行動時間が共通である以上、飲食をともにする場合も多く、この段階ですでに、食事に誘う手間が省ける。
「食事がOKなら、全部OK」という大勘違いがある。
食事をともにするのは、互いの文化的確認や摺り合わせの側面はあっても、猫ならまだ「ワーオ」の段階だ。

それが解っていたとしても、いつも食事をして歓談していれば「いいムードになってるぞ」と、勝手にアクセルを踏み込み始める男がいる。(女もいる)

泊まりがけの出張を断らなかったりすれば、もう完全「OK」だと思いこむ。
部屋は二つ取っても、あの手この手で二人になり、いいムードのつもりで抱きついたりしたとたん、
「何をするんですか、止めてください」と言われ、
『またまた、そんなことを言ってじらして・・・』とばかりに続行しようとすると、
「ウギャギャギャギャ・※◎×△お代官様×※△◎」の大抵抗。
『もうこうなったらやってしまうしかない・・・』
あまりの血相に、女の方は怖くもあり、人を呼ぶのは気の毒とも思い、諦める。
すると男は『やっぱりそうじゃん』と悦にいる。

ここでまた一つ勘違いが起きる。気があるからスムーズにできたんだと男は思うが、恐怖と興奮でも可能になることもある。許していなくても。

そして、ある日「警察の者ですが」という人がやってくる。

これが通り相場の展開だ・・・しかし