明治大学登戸研究所資料館

2019-04-07 00:00:37 | 美術館・博物館・工芸品
明治大学生田キャンパスは小田急線生田駅から7~8分歩いた丘陵に立つが、実はその土地は戦争中は「第九陸軍技術研究所」という戦争用の研究所だった。防諜、諜報、謀略、宣伝という「秘密戦」のための場所であった。さらに、その秘密性から言って、研究にとどまらず、様々な戦争用の資材の制作も行われていた。

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終戦間際には、米軍の上陸によって秘密が暴露することを恐れ、長野県に移転、建物だけが残ることになる。そして終戦後1950年に土地を明治大学が購入し、キャンパスに新しい建物が並ぶことになるが、現在でもいくつかの戦前の研究所の記憶が残っている。

その一つがキャンパスの奥にある全く目立たない平屋建ての建物。一部屋一部屋が頑丈にできている。現像用の暗室は何の研究に使われていたのだろうか。この研究所で行われていた研究は、実に多様なのだ。

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まず第一科。電波兵器や風船爆弾を開発していた。実際に風船爆弾の1/10の模型が展示されている。最初は人を攻撃するのではなく牛を殺傷する牛疫ウイルスという生物兵器をばらまこうと計画されていたそうだ。しかし、生物兵器を使った場合、米国は必ず生物兵器を日本に対して使うと想定して、ウイルス攻撃はやめたそうだ。

しかも爆弾を日本の東北以北から飛ばした場合、ソ連領カムチャッカに落ちる可能性がある、ということになり関東(茨城・千葉)から飛ばすことになった。確認される被害は、オレゴン州の山で起きた。当時米国は国民に風船爆弾の飛来を秘密にしていた。1945年5月5日に牧師夫妻と5人の子どもが車でピクニックにいった際、木にひっかかっていた風船をこどもの一人が触ったところ、爆発。5人のこどもと妊娠中の妻が死亡した。

20世紀中にアメリカ本土で、敵からの攻撃で民間人が亡くなったのはこの6人だけだそうだ。現地では「オレゴンの悲劇」と言われ慰霊塔が立っている。

そして2科。暗殺用の毒物、生物兵器、携帯用の武器や特殊インク。そして例の陸軍731部隊とは別に、毒物の人体実験、細菌の散布実験を海外で行っていたそうだ。

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そして3科は偽札作りを担当。中国との戦争に決着をつけるため、経済活動を困難にするため、中国国内用の偽札を作って、経済破滅を起こさせようとしていた。以前「偽札」の研究をしたとき、中国側は日本の偽札増刷量を知っていて、その分の紙幣の発行は控えていたと書かれていたのだが、むしろ高額紙幣を発行して薄めていたということだ。

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訪問した当日は、当研究所と帝銀事件の関連を解説していた。1948年に起きた帝銀事件は12名の大量毒殺によって銀行強盗が行われたのだが、その使われた毒薬が、自然界に存在するものではなく、青酸化合物であり、さらに本研究所あるいは731部隊で作られていた毒物の可能性が高いということになったのだが、一介の画家である平沢貞通氏が犯人とされ、死刑判決を受ける。再審請求もかなわず死刑囚は宮城刑務所で病死してしまう。当初の捜査は、元研究者を中心に行われていたが、途中から米軍の介入によって軍関係者を調べることが禁止され、急遽、画家が逮捕された。

実際に帝銀事件のことをよく知らないので、残念ながら、これ以上、書きようがないので、この辺で・・