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昨日の続き

2014-02-06 00:40:17 | 青ヶ島

 昨日の雑誌を職場にお返しする前にコピーしてしまいました。年末に放映された「黄金伝説」の影響なのか、「青ヶ島」の検索キーワードでヒットし、このブログへの来訪者が増えています。ご覧いただいている方の皆さん、青ヶ島に興味をお持ちになり、ありがとうございます。
 今の時代、欠航は最長1週間前後、最長9日(去年の還住丸実績データから)ですが・・・40年くらい前は3週間くらいの欠航が日常茶飯事。半世紀前(1960年代)は年に5、6回しか船が来ない。当時の人口は今よりも倍以上。絶海の孤島でも船がやってこなくても食べていけるように主食は「カンモ」(さつまいも)でした。当時は艀作業の船着き場なので、食卓に鮮魚が出ることはなかったそうです。
 昭和47年に村営連絡船の旧あおがしま丸が就航する前の青ヶ島。東京~八丈島間の東海汽船定期船を青ヶ島に延ばし、沖合で停泊。当時は大型船から小さなボートに移し替える艀作業。褌姿の青年団が「エイサ、エイサ」という掛け声とともに漕ぎながら小さな船着き場に到着。荷役が終わるまでそれを何回も繰り返し。真っ先に降ろされるのは、島民宛の郵便物が入った郵袋。特殊公衆電話は1分あたり数百円など国際電話並みに高いので、手紙やハガキが通信手段。今来た船を逃すと、次に出せるのは2、3ケ月後。今来たばかりの手紙を読み、その場で返事をしたためる。今の時代、手紙やハガキは飛行機とヘリで運ばれるため、翌日配達。ネットのブロードバンドも2004年から導入、携帯電話3社も通信エリア内。当初ドコモが独壇場でしたが、au、ソフトバンクも数年前から参入。
 昭和46年の世界にタイムスリップすると・・・沖合に停泊する船と、磯の間の波の状態が悪いと1~2時間もにらみ合った末、引き返すという「出戻り」も珍しくなかったという。目の前で引き返されるなんて、当時の島民は苦しかったに違いない。内地からの新任教師も何日も船待ちしたあげく出戻ったり、いったん上陸すると、何か月も内地へ帰れなくなる。苦労してここまで来たのに、島の人は艀を下ろして迎えに来ないかと島民の行動や判断が疑われてしまったのだ。こんな島に住めるかと辞職してしまった教師も多い。
 高津勉先生だけは、上陸した日の夜、今度来る船で逃げようと考えてばかりでした。逃げること考えてばかりしていたら、島の子どもたちに未来はない。1957(昭和32)年、史上初の修学旅行を実現。いろんな情報が詰まっている本も必要だと図書館を設けるなど、教育改革。伊豆諸島に新しくできた図書館がいくつかありますが、青ヶ島村はずっと昔から図書館はありました。
 あおがしま丸の実績と予想。
 2月 1日(土) ○ 就航 貨物便8:30発(1月31日分)
 2月 2日(日) 運休日
 2月 3日(月) ○ 就航
 2月 4日(火) 運休日
 2月 5日(水) × 欠航(5回目欠航カウント)
 2月 6日(木) 芝浦で積荷作業後、八丈島へ
 
---(ここから予想)---
 2月 7日(金) ○ 就航 貨物便8:30発
 2月 8日(土) × 欠航
 2月 9日(日) × 欠航(前日のうねりがまだ残る。出航は無理かも)
 2月10日(月) △条件付き 就航
 2月11日(火) ○ 就航
 2月12日(水) 芝浦へ

コメント
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