カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

早起きは大きな損失の元

2022-11-15 | 掲示板

 ある会の記念例会だからというので、わざわざ依頼もあったことで、多少の律義さを出して早起きすることになった。前の晩はちょっと早めに映画を観たのだが、これが二時間以上の尺で、結局そんなに早寝はできなかった。休肝日でもあったので導眠剤を飲んで、布団でしばらく格闘したかもしれない。結局は寝ていたので、大した睡眠不足になったはずはないとは考えられるけれど。
 でも目覚ましはかけていたし、結局つれあいに起こされ、月並みだが、もう朝か、と思った。そそくさと支度して、いつもなら新聞読んでいたいところだが切り上げ、家を出た。当然ながら外は暗く、しかし車はまだ多くは無い。会場まではスルスルと着いてしまって、駐車も終了後すぐには出ないだろう(と誘導された)という車の前に停めた。会場では知った人と挨拶を交わし、知らない人とは名刺交換をした。実は朝なのでずっと頭はボーっとしている。社交的にふるまっている自分というのは知っているが、こういう状態だからたぶん長時間の記憶には残ることは無い。
 例会が始まり、いろいろ儀式はあり、挨拶聞いたりお話聞いたりした。いちおう気になるところはメモに取ったりもした。しかしずっとボーっとしている。これは早起きした状態の特徴である。もう少ししたら激しい睡魔に襲われるのだ。
 朝食は断り、着替えに帰る。せっかくだから家で朝食を摂り、車に乗り出勤し直す。頭がぼーっとしたままで運転が危険かもしれない。そろそろ眠いという感じもわいている。コーヒーをちょびちょび飲んで、今日の予定などを考える。運転中なので手帳を見ることができない。記憶の中にはたいした用事は無いが、手帳が無ければ本当の予定なんて知りようが無いではないか。
 さて、職場に着いてからがさらに問題が顕在化してくる。それというのも、物事の内容が頭に入ってこない感じなのである。文章の理解も遅れるし、人の話も輪郭かボケている感じもある。そうしていつの間にかボーっとするような時間ができる。コーヒーや炭酸水をがぶ飲みし、何度もトイレに行き、ウロウロする。しかしながら、眠気というのは結局寝ないことには解消されない。しかし、睡眠が必ずしもひどく不足していないにもかかわらずこうなるので、ひどい睡魔に襲われているわけでは無いのだ。
 おそらくなのだが、夜更かししての睡眠不足と、早起きしての睡眠不足は、何か性質が違うのである。もちろん僕の個人的な体質のようなものがあるとは考えられるが、いつもと違う一日のスタートを切ることで、体の方がその異変に慣れていかないのが一番の原因なのだ。ある程度一定の時間に起きる習慣がついているので、ごくたまにそれより早い時間に起きることで、その異変をずっと抱えたままリセットされることができないのかもしれない。
 そういう訳で、僕にとっては早起きは非常にリスクが高い問題である。ずっと早起きし続けると、いくらかそれは改善されるだろうことは分かるが、そうすると今度は、寝る時間の調整をする必要があろう。そうすると今度は帰宅時間を調整する必要があるだろうし、その前の仕事の配分を変える必要があるかもしれない。現実的にそんなことをすることで、もっと体調に異変が起こるかもしれない。可能であるならば、早起きはできるだけしないに越したことは無い。体に悪いだけでなく、無駄の多い一日が増えるだけのことなのである。
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不条理を是正したいアメリカ人は、つまるところ受け入れるしかない   スティルウォーター

2022-11-14 | 映画

スティルウォーター/トム・マッカーシー監督

 アメリカの田舎町に住む父親のトムは、フランスで刑務所に入っている娘の面会に行く。そこでこっそり手紙を渡され、それを彼女の弁護士に渡すが、いまさら判決が下り刑期に服している囚人の証言を取り上げて捜査をやり直すなんてものは現実的ではない、とはねつけられてしまう。実際にはフランス語を解しないトムは、たまたまホテルのお隣の部屋の夫人が英語を話せることを思い出し手紙を読んでもらい、なんとか一人でこの問題を解決できないかと奔走しだす。しかし言葉の壁だけでなく、保守的なフランス・マルセイユの田舎の事情があって、誰しも事件に協力的ではない。さらに徐々に明かされていくが、娘の犯したとされる殺人事件は、フランス国内では相当なゴシップとして騒がれたもののようで、アメリカから来たレズビアンが、同じレズの恋人を嫉妬の上惨殺したとされるものだった。(すでに5年服役している)娘は自分が殺したのではなく、留守中に出入りした共通の知人の男が犯人だという。DNA鑑定をすれば事実は明らかだという。途中、高額で世話をするという元警官である探偵の話だと、特定の男を探すだけでも大変なうえ、DNAの取り出せるものを確保するのも大変だし、それをコネを使ってその部屋に残っていたとされるDNAと照合させるのも時間がかかる、と言われる。それで違った場合も考えられるのだし、娘が無罪だと父親が考えているのなら、それでいいのではないか、ともいうのだ。
 結局弁護士が取り上げて捜査しているものと勝手に娘に思われてしまった父は、そうでなかったことがバレてしまい、絶縁状態になる。そうしてそのままフランスで肉体労働者となり、親切だった母子のところに転がり込んで、ルームシェア生活をしていた。どうしても娘のことを何とかしたいという一念がそうさせているものであるが、フランスでの生活もそれなりに板についたものになっており、その家の娘との関係も非常にいいのだった。そういう中、絶縁状態の娘が一日保釈さることになり、引き取り手となるのだったが……。
 英語圏の人間が、フランスにいてもフランス語が分からないままなんとか英語で何かをやり遂げようとするがうまくいくはずがなく、時折非常に自己中心的にイライラするが、しかし打ちのめされていく。しかし、ひょんなことから大きなチャンスが転がり込んできて、男は大胆な行動に出るのだった。
 エンディングのもの悲しさも含め、なかなかに感慨深い作品になっている。長尺だが、それなりの内容であると言える。最後のサスペンスで成功と消失を同時に味わうことになるが、まあ、そういう上手く行き方というのが、ちょっとした裏切りなどの要素が複雑に絡んだ偶然というのも、なかなかに考えられたものではなかろうか。結局ちょっとした人々が、もう少し慎重に事を運んでくれさえすれば、こんなことにはならなかったのでは無いか。アメリカ人の怒りと諦めは、そんなところからきているということなのだろう。
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イノシシが撥ねられる

2022-11-13 | HORROR

 いつもの散歩道は、おそらく赤道で残されている線路を横断する小径がある。それで線路渡って畔に行こうとすると、どうもなんだか異様な匂いがする。ひどく臭いが、なんの臭いなのか。レバーののような生臭さと、泥と墨が混ざったようなものと、草をこすって苦い汁が飛び散ったような、複雑な臭いが立ち込めている。線路を改めてよく見ると、臙脂色に飛び散った何かの破片跡があり、鉄にも白くこすれて伸びた線が残っている。コンクリートと焦げ茶色の木材の枕木にも激しくこすれて傷つけたような、がさがさとした線がいくつも走っている。ところどころ臙脂色の破片がこびりついている。
 今時の列車が線路に汚物を落としていくとは考えにくいが、何か汚いものをまき散らして捨てていったような、そんな情景とも取れなくもない。そういえばさっきまでカラスが複数羽群れていて、何かをつついていた。よく見ると長く縮れた赤いひも状のものが落ちている。草木のそれとは違って柔らかさがありそうで、これは腸なのではないか。すると、何かの動物? 猫か何か……。4.50m先とさらにみると、黒いずんぐりとした塊が線路に横たわっているのをやっと発見した。ああ、あんなに大きいのはイノシシだ。イノシシが跳ねられたのだ。
 近寄って歩くと、さらに肉塊やちぎれた腸や、他の臓物らしきものが飛び散っているのが分かった。腸もあちこち伸びて千切れている。大きな塊のイノシシ本体の死体は、真横にゴロンと転がった形で、ちょうど線路の真ん中にぴったりと収まる形で横たわっている。触りたくないので動かすつもりになれないが、この体の下側に曲がって隠れている頭があるのか、もしくは頭は千切れてどこかに飛んで転がっているかもしれない。角度かもしれないが、頭の無い丸く黒い塊には傷や穴が開いていて、そういうところから、これまで見てきたような臓物が飛び散っていったのだろう。先ほど僕が見た現場あたりで最初に跳ねられ、そのままゴロゴロと、もしくは引っかかりながら引きずられ、ここまで来て落ち着いたのだろう。ナムアミダ。
 それにしても臭いが凄いが、跳ねられたのはいつ頃のことだろうか。すでに昼になっていて、いくら田舎でも、何本もの列車が行き交ったはずである。運転手はギョッとしただろうが、どうすることもできず、上を通り過ぎて行ったことだろう。最初に跳ねた運転手は当然気づいていたはずで、そうするとその人が会社には連絡したはずだとは思う。それでもすぐに片付けることができなくて、こうして死体が横たわったままになっているのかもしれない。
 その後もカラスの鳴き声がずっとあたりを支配していた。夕方暗くなってからは、もう近づかなかった。
 それで翌日になってみると、驚いたことにちゃんと片付いていた。夜のうちに片づけた人が居たのだろうか。線路のあい中に挟まるくらいだったとはいえ、丸々していたし、100キロ以上は少なくともある個体だったはずである。何か道具を使うにしても、複数人で葛藤したのではなかろうか。どういうお仕事の人が処理されたものか知らないけれど、実際大変だったろうと思う。処理したのちのことは更に知らないが、もう食べるわけにもいかないだろうしね。
 飛び散っていた肉片などもあらかた片付けられていた。多少線路内での引きずられた跡かたは残っていて、やっぱり夢じゃなかったんだな、という程度にきれいになっていた。臭いだけは残っていて、野生というのは、身近にありながら、やっぱりワイルドなんだな、と思った。

※ なお、写真はかなり生々しかったので、やっぱりあげないことに致しました。悪しからずご了承ください。
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私の本当に欲しいものは   あのこは貴族

2022-11-12 | 映画

あのこは貴族/岨手由貴子監督

 原作の小説があるらしい。良家の生まれのいわゆるお嬢さんである華子は、しかし結婚を考えていた男性にフラれ、急に適齢期の結婚に焦りを覚えている。そうして言われるままに、見合いや合コンを繰り返すが、何かしっくりした相手に出会えないでいる。そういう中だったが、さらに階級が上の良家の出である弁護士の男・幸一郎と見合いで一目惚れし、トントンと結婚という運びとなる。一方、富山出身で猛勉強で東京の名門大学に合格した美紀は、親の事情で学費が払えなくなり、キャバクラのバイトでしのごうをするが、あえて退学。そのままキャバ嬢で働いているところに同級生だった幸一郎が客として現れ、そのまま付き合いが始まったのだった。
 幸一郎と結婚後、華子は美紀の存在を知り、友人を通じて二人は会うことになる。そうして二人は、この妙な縁で友情のようなものが生まれるのだった。
普通ならお互いに居心地の悪い関係になりそうなのだが、そうならないところがこの映画大きな特徴である。良家の生まれながら純粋に相手に激しい恋心を持っている華子だったが、相手の幸一郎は、良家の出である女性なら結婚相手として申し分が無く、流れだから受け入れているだけだということに傷ついている。その上で、幸一郎がそういうことと関係なく付き合っていた女である美紀のことを、純粋に知りたいと思うのである。
 現代にありながら、裕福な貴族的な階級社会にある中での女性の生き方の問題や、対照的に地方の出で下の階級でのし上がることの困難な女性の生き方が、交錯する構図にもなっている。そういう中にあって、自分らしさというのはいったい何なのだろう。最終的には華子の生き方の大きな疑問が、この物語の大きなクライマックスを占めていると言えるだろう。
 東京地方の階級のことは、縁がないのでわかりえないが、まあそういう人もいるのかな、という程度か。地方にもそんな人たちは居るんだが、だからと言ってそんな特権が苦しいものであるのは、個人にとってはよくあることだろう。金が無いのも困るが、収まりが悪いのも困るものだ。政治家一家がそういうものなのかはさらにわかりえないが、一定の圧力下で生きざるを得ない人は、確かにいるとは思う。逃げられないのだから受け入れているわけで、その中で生きられない女性が、このような純粋さで居るというのは、確かに一種の発見だった。楽しい物語では無いけれど、女の人の強さのようなものを改めて感じさせられたのだった。
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失恋したら、自分が見える   くまちゃん

2022-11-11 | 読書

くまちゃん/角田光代著(新潮文庫)

 NHKで「理想的本棚」という番組があり、それで「ひどい失恋をした時に読む本」というテーマで三冊紹介されていた。本の内容をドラマ仕立てで一部を紹介されていたのを見て、ほんとにこれからどうなるんだよ! と思って、アマゾンの注文をクリックしていたようだ。本が届いて可愛い熊のTシャツか何か来ている女の絵の表紙を見て思い出しはしたが、しかしすぐに読まずにいて、やはりなんだか気になって手に取ると、一気読みしていた。お話は連作短編になっていて、表題のくまちゃんという男からフラれる女の話から始まって、次にくまちゃんというふった男が別の女にフラれる話になる。そんな感じで7編である。
 そういう構成なので、いろんな恋愛が展開されていて、それ自体が面白いのだけど、いづれは終わると分かっている訳で、ちょっとつらいものがあるのだけれど、別段ひどく落ち込むことにはならない。というか、フラれて困るというか、非常に傷ついている人々の心情が語られているにもかかわらず、結構元気になる感じなのだ。それが何故なのかあえて書かないが、嘘ではない。失恋で元気になるなんて、普通ではちょって考えられないことだとは思うのだが、この失恋によって自分に気づくことを経験する人々によって、自分のことにも気づかされることがあるせいだと思う。文章の中にそういうヒントがたくさんあるはずだから、自分で読んで受け止めて欲しい。
 それにしてもだが、この中の人たちは、割合あっさりセックスをするし、本当によく酒を飲む。実にすさまじく飲む人もいる。料理を食べ、料理を作り、そうして大量のアルコールを体内に流し込んでいる。僕も酒飲みだが、酒を飲んで恋愛したことが無かったので、これはとても不思議な感じだった。作者が女性だからかな、とも思うのだが、酒の勢いでそういう流れが作られていくというのが、よく分かる。そういうことってあるんだろうとは思うのだが、なるほど男の目からすると、そういう風に飲んでいる女というのは、居たのかもしれないと改めて思った。もう僕は若くないので、そんなことをいまさら知っても遅いのだが……。
 さてこれで、失恋したときに実際に読んだらどうなるのだろう。本当のところは分からないけれど、あえて活字を読める元気のある人であれば、軽々しく立ち直れないということも理解したうえで、救われる気持ちになれるだろうと、僕は思う。NHKの番組は正しかった。素晴らしいチョイスだと思う。まあ、特に失恋しているわけでもない僕が言っても、説得力はないかもしれないが……。
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実は超人男は平凡を好む   Mr.ノーバディ

2022-11-10 | 映画

Mr.ノーバディ/イリヤ・ナイシュラー監督

 ある意味で規則正しく変わらない毎日を送っている平凡で地味な男の家に、二人組の強盗が入る。息子は果敢に立ち向かい取り押さえられそうになるが、父親は何故か反撃の手を貸さず、取り逃がしてしまう。この事件は近所でも会社でも評判になり、男の株はガタ落ちになる。男はしたかたなくそれを受け入れていたが、小さい娘が猫の首輪を取られたというので気が変わり、急に目つきが変貌して強盗の一人のちょっと見えていた手首のタトゥーの記憶から、強盗犯の家を突き止めて、猫の首輪を取り戻そうとするのだったが……。
 情けなく弱々しい平凡な男が、実は過去に何かがあり、強靭なマッチョマンだったというアクションものである。こういうのは一種のパターンとして、日本の少年漫画ではおなじみなのだが、まあ、そういうものだということで観る分には、楽しい作品である。何しろ荒唐無稽な話だから留飲が下がるのであって、そのままみじめなら何のカタルシスも無かろう。
 さらにこの超人マッチョマンは、しかしそれなりに戦いながら傷つくのである。ふつうはこれくらいのダメージを受けると、即入院なり手術が必要なレベルだが、妻から手当てしてもらう程度で、見事に復活する。敢えて言うなら、強いは強いが圧倒的に強すぎない危うさがあることが、アクションの見どころになっている。また年老いた父親や、謎の仲間も手伝ってくれる。相手はちょうど今どきの状況に合わせたかのようなロシアン・マフィアで、重装備の上に、実にあくどい連中なのである。
 それにしてもたくさんの人が死んでしまうけれど、さらに警察には捕まるけれど(最初からそれは明示されている)、おそらく彼は無罪になるのだろう。ふつうはいくら何でも過剰防衛だし、ロシアン・マフィアも他の連携もありそうだけどね。ああ、言ってしまったが、そういうことは言わない前提で楽しんでくださいませ。
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忙しいは偉いのか?

2022-11-09 | つぶやき

 挨拶のように、忙しい、忙しいでしょう、という言葉が交わされる。忙しいかと言われるとしかし、ちょっと考える自分がいる。何を自分は忙しいと考えているのだろう。スケジュールはそれなりに空いてない。空いていたら、埋まっていく。僕が相手に求めるときもあるが、たいていは先方が予定を埋めてくれる。空いている時間を教えてくれと言われる。じゃあこの日はどうですか? と答えると、その日は都合が悪いという。あれこれ調整が大変なのである。調整すると、当然それまでに何かをやらなければならないことにもなる。宿題ができる。そうすると目先の時間の使い方を、また変える必要が出てくる場合がある。結局詰め込み方の問題で、今日の予定がちょっと増える。またはもう明日に回して、明日苦しむことにする。もしくはもう時間が無いのであきらめる。現場で合わせるんでいいんじゃないかと思ったりする。そういうのは必ず後悔することになることを知っているくせに、そうしてしまう。だって忙しくて仕方が無いじゃないか。もう言い訳が用意されたわけだ。
 しかしながら忙しさにも波があるのも確かだ。いろいろ忙しすぎてただ時間に追われてその流れの中にいる時は、しかしあんがい時間は早く流れて、乗り切るとかなり開放感がある。目の前の予定が一つあるくらいなら、なんだか楽勝のような気分に浸れる。むしろ物足りないくらいに思うこともある。ワーカホリックは、中毒性があるのである。忙しい方がつらいのは確かなはずなのに、暇になって楽なままでいるのは快感ではない。何か物足りないので余分なことをして、周りに疎まれる。かえって失敗して余分な仕事が増えたりする。今度は自己嫌悪に襲われる。何度も繰り返しそのことが頭から離れない。暇な時間のはずなのに、その余裕が嫌な考えに支配される。そういうのはもったいないような気がするのだが、忙しいときはむしろ目の前のことに支配されて考えないだけのことで、振り返るとそうなってしまうのかもしれない。だからそういう妄想から逃れるためにも、仮の忙しさを欲してしまうのかもしれない。気掛かりだったり反省することが後回しで時間が経過して、もうどうでもよくなるような気もする。それは何らかの傷として残る場合があるのだが、痛みさえ忘れたら、それでいいのである。
 しかしながら忙しい話というのは、ちょっと張り合うような人がいて、聞いているのもつらいものがある。忙しい自慢をする人もいるし、忙しいから偉そうな人もいる。いわゆる今風に言えば、忙しさを語る上位者として、下位の者たちにマウントを取っている。忙しくてやりたいこともできないけど、実はジムに行っていて体も鍛えている。健康的でアグレッシブで、周りの人間よりできる人間で、自分は偉い! と言っている。そういうのはアメリカのビジネスマンでは昔いたような気もするけど、こんな田舎でも居たんだな、と思う。今じゃ都会では瞑想していいもの食って楽して働いていると聞くが、田舎では忙しい方がマウントを取りやすいのかもしれない。牧歌的な風景は何処に行ってしまったんだろう。
 ということで、実際のところ、僕はあんまり忙しくないんじゃないかとも思う。余裕はないが本当に忙しい訳ではない。少なくとも忙しい人種の上位者ではない。予定を埋めるくらいには空いているし、そもそも仕事もそんなに量をこなせるような技量が無い。できないことが多いから、人に頼んでやってもらっているだけのことである。ただ単に、暇だという勇気のようなものが無いだけのことなのだろう。
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ダークだが美しいファタジー恋愛   水を抱く女

2022-11-08 | 映画

水を抱く女/クリストアン・ペッツォルト監督

 まず、男女の別れ話のような感じでフラれかけている女性は傷心状態だ。その彼女であるウンディーネは、ベルリンの博物館のガイドをしている。博物館近くのいつも立ち寄るカフェで彼氏を探しているが見つからない。代わりにそこで潜水士のクリストフと出合い、新たな恋に落ちる。激しく愛し合う仲になったものの、そういう時に最初の彼氏がよりを戻しに現れるのだった……。
 後で知ったが、この映画の題材となったウンディーネという水の精の伝説があるらしい。最初はリアルな恋愛もつれのドラマかと思って観ていたが、しあわせの絶頂期に元カレが復縁を求めてくるあたりから様相が激変する。いきなりのダークファンタジー化する展開に戸惑うが、あえてすっきりした解答を求めない方がいいのかもしれない。それに、この展開で、心動かされることも確かだ。妙な映画を観てしまったということは言えるかもしれないが、それが悪い映画だったとは思えない。いや、これはいい映画なのだ。というか、結構だらだら続いていた愛し合う男女の場面をみせられていたのに、キリッと引き締まったような、シャープな印象の余韻が残るのである。
 それにしても、他に女ができて別れようとしたにもかかわらず、その別れようとした女がしあわせにイチャイチャしていると、またよりを戻したくなる男(別に女でもいいが)というのはどういうものなのだろうか。実際にそういう話は聞くところも多い訳で、改めて映画で見せられて、ひどく混乱させられた。自分にとって、ぜんぶ欲しいというか、何か未練がましいものが湧いてきて、そうなってしまうということか。そうして、少なからぬそういう思いに引き回される関係というのも、どうしたものだろう。もっともこの映画は、そういう感情があるからこそ成り立っている訳なのだが……。
 ということで、たまにはこのような知らない俳優だらけのドイツ映画もいいのではなかろうか。
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キノコが世界を変える(らしい)

2022-11-07 | Science & nature

 子供のころ松本零士の漫画を見ていたら、押し入れに入れておいた、おそらく洗っていないパンツなどから、キノコが生えてくるというのがあった。一人暮らしの男というのは、それくらい不潔であるというギャグなのだろうけれど、そういう男であっても最終的には美しい女性に好かれたりするファンタジーもあるのだった。今考えると、やっぱりあり得ないよな、とは思うが、男の哀しい願望なのであろう。
 これも漫画だが、西岸良平(三丁目の夕日の原作者)のものでは、家に生えてきたキノコを、貧乏のあまり食べるようになると、なんだか特殊能力を授かるというのがあったように思う。なんという漫画のタイトルだったかは思い出せないが、本当にそんなことがあるといいなあ、と思った。しかし得体のしれないキノコを食べる気には、どうしてもなれない。
 それでも年に何度か、新聞などで毒キノコを食べて死んだ人の記事が出る。世の中には勇気のある人がいるもんだな、と思う訳だが、実際のところは毒とは知らずに食べているわけで、何か毒でないキノコと誤って食べてしまうものらしい。
 以前一緒に飲んでいた地域のおじさんと、キノコの話題になった。テングタケなど、時にシイタケなどと間違って食べる人がいるのだろう、ということだった。「やっぱりあれは苦しんで死ぬんですかね」と僕が言うと、「いや、腹が痛くなってヤバいな、と思うけど、翌朝には治ってるよ」ということだった。実際に食べた人を目の当たりにして、とても感心したものだ。
 ところでキノコの姿を見て僕らはキノコだと思う訳だが(当たり前だ)、実際のキノコの姿というのは、その根元の下に広がっている菌糸の姿の方だという。キノコの実態というのは、例えば倒木などに、この菌糸を張り巡らせて、分解させているものであるらしい。相当範囲に菌糸を伸ばしつくし、その場で分解・栄養を吸いつくす後に、新天地を目指して胞子を飛ばす段階になって、初めて地上などに姿を現す。あるものは昆虫などに捕食されることで胞子を別の場所に運ばせたりもするが、多くの場合は傘など広げて胞子自体を空中に飛ばして、生息地を広げていくらしい。
 また近年になって知られてきていることだが、雲の形成にも影響があるらしく、雲を形作る核になるような微細なチリの中に、キノコの胞子が多く含まれていることが分かってきた。そういう訳で、雨を降らせるシステムと、キノコの関係が注目されているという。我々生命体は、キノコの恩恵なしに、地球では生きていけないとも考えられているという。にわかには信じがたいが、自然というのは、信じようが信じまいが勝手にそうなっているということで、人間はそれを知るか知らないか、という存在に過ぎないのである。
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許されない時代の愛   この世界に残されて

2022-11-06 | 映画

この世界に残されて/マルナバーシュ・トート監督

 言語がよく分からず、これはドイツ近辺のどこの国だろう? と思いながら観ていた。答えはハンガリー。最初から知っていた方が、都合がいいと思う。少なくとも僕のような無知な混乱に捉われる必要がなくなる。
 先の大戦終了後少しだけ時間が過ぎている。ホロコーストなどの虐殺から生き延びた14歳のクララは、頭はいいが気難しい。体調も不良で婦人科の診断を受けると、そこの医師が42歳のアルドで、彼もまた家族を失いながら生き残ったユダヤ人だった。クララはアルドに近づき、亡くした家族や父の匂いなど、さまざまなものを求めるようになる。引き取ってもらった叔母とも自分の我の強さのためか、生活が上手くいっておらず、もちろん学校の先生とも険悪である。最初はアルドも戸惑いの方が大きかったのだが、問題は多いが一途に慕って来るクララのことが気にかかり、共同生活というか、事実上の同棲生活を始めることになった。もっとも歳の違いもあるし、倫理的な分別が取れるという確信を持ってのことだった。しかしながらセックスなしではあるものの、一緒に傷を温めあうようにしてベッドを共にして寝ている訳で、最初は疑似親子の間を埋めあうような感覚であったものが、クララの成長とともに、何かが変化していく。そうして時代も共産主義的な締め付けが強くなっていき、クララとアルドのような微妙な人間関係が、社会的に許されなくなっていく空気が漂い出すのだった。
 後半はやや唐突に物語は進んでしまうので、ちょっと面食らってしまうところはあるし、整理するのは結構難しいものかもしれない。しかしながらそれまでがそれなりに丁寧に描かれているので、静かながらもその心の底にあるのだろう葛藤が、見事な余韻として残る作品だ。僕はショックを受けて、翌朝まで心のモヤモヤが晴れなかった。なんという人の一生だろうか。そうして純愛というのは何なのだろうか。ましてや年の差というのは何なのだろうか。
 もちろん、食事やアイロンがけのような日常の様々な場面で、どんどん二人は危うくなっていくのだが、それはそれで自然だし、そういう方向は必然でもあるような感じだった。廻りの目があろうと、現代社会なら平気だという感じにはなるだろう。むしろ多少イタイ感じもするかもしれないが。
 しかしこの映画そうならないからこそ、深いこころの傷が、結果的には残るのである。激動の時代が無ければ二人は出会うことも無かったかもしれない。その限られた条件下で、二人は激しく燃え上がるものを感じていたのだ。そうしてそれはやはり、その時代や個人には許されることでは無かったのだ。
 残酷だが見事に美しい映画である。そしてひとは嘘つきなのである。
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チャンスは自分でつかむものか

2022-11-05 | 境界線

 本場アメリカでジャズを学んでいる若者のドキュメンタリーがあって、その中に才能ある若い日本人もいるわけだが、いわゆる積極性の面で、問題があるということらしかった。お国柄ということもあるし、本場のジャズ文化ということとか、教育の考え方もあるかもしれない。
 楽器にもよるのだろうが、この曲をだれかやれる? と先生が言うと、やはり積極的なものから先に自分がやると言い張る。じゃあやってみて、となって演奏する。じゃあ次は? となるとまた誰かが手をあげて選ばれる。そうしてまた演奏する。手をあげないものはいつまでたっても聴いているだけで、演奏には参加できないということになる。演奏できないものは、先生の目に留まることもできないということになり、本番のプレーヤーに選ばれることも当然なくなってしまう。チャンスは積極性の先にしかないことであり、黙っていてめぐって来る社会ではないのである。
 基本的な視点はそういうことだった。しかしながら学校だから、さまざまな場面でレッスンがあり、演奏する機会や、高度なものを見たり聞いたりする実践の場が豊富にあるようにも感じられた。
 もちろん先生も、積極性のないものにチャンスは訪れないと頻繁に口にしている。向こうの積極性は、ある意味でやる気であるとか前向きであるとか、何か自分で勝ち取るアグレッシブな力のありようのようなものなのかもしれない。
 そうしてある者はそのチャンスを勝ち取るために、我こそ先に人を押しのけて前に出ようとするのである。それがその世界の美徳なのだ。
 これは実際によく分かる話ではある。日本とは違うということのようだが、日本社会であっても、村社会の集団内では、多かれ少なかれそういうことは起こる。積極性が無くても指導者が勝手に持ち上げる場合もありはするが、それが正当なものばかりでもあるまい。実力通り客観的に人選がなされる社会なんてものは、アメリカだろうと日本だろうと、必ずしも実現していないかもしれないではないか。
 しかしながら例えそうであっても、本当に飛びぬけて実力のあるものというのは、やはり突き抜けてしまうものではないか。そんなに差が明確でない競争であれば、それのプラスαが必要だし、はっきり言って運だって味方にしなければならないだろう。そういうもの以上のものがあるのだったら、そもそも積極性だとかいう以前に、ここはお前だろう、という話になるのが当然だろう。
 もっともそんな人間なんて、やっぱりそうそういるものでは無いのかもしれない。しばらくたって結果的に実績が積み上げられ、スゴイ人になるということなのだから、最初からものすごく凄くなくたっていいのである。今が凄くないから、凄く鍛錬を積む素養ができるのかもしれないし、伸びしろだってたくさんあっていいじゃないか。
 まあ、場合によっては恥ずかしがり屋は損かもしれないが、前に出てほんとに失敗するのだって相当つらいですよね。そういう恐怖を打ち破るためには、やっぱり何らかの自信というものは必要なのかもしれないけれど……。
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強い男も泣いている   クライ・マッチョ

2022-11-04 | 映画

クライ・マッチョ/クイント・イーストウッド監督

 何しろ演じているイーストウッドも90を超えているわけで、最初の登場からかなり危なっかしいし、声の張りもない。元ロディオのヒーローだったカウボーイが、何らかの問題を抱え、ろくに仕事もできなくなり、事実上、隠居の身にやつれている。そういう時に、元雇い主の多少問題のある男から、メキシコにいる息子を連れ帰って欲しいという依頼が来る。メキシコには別れた妻がいるが、息子を虐待しているし、取り戻して一緒に暮らしたいのだという。昔の恩義が無い訳でもない頼みごとなので、ボロの車に乗り込み、単身メキシコの国境を渡る。そうして今は豪邸に住んでいる雇い主の元妻の家に行ってみると、すぐに捕まり、息子は野生児のような聞き分けの無い人間で闘鶏に熱中し、賭け事や盗みや、そういうことをやってろくに帰って来ることは無い。連れ帰れるもんならやってみろ、という感じになる。実際に闘鶏場に行ってみると、ちょうど警察からのがさ入れが行われ、人々は散り散りになってしまう。そういう中なんとか見つけて話をしてみると、その息子もテキサスのカウボーイの仕事にも興味があるようなのだった。じゃあ帰ろうということになるのだが、そうなると母親の刺客から追われるし、誘拐として警察に間違われる可能性もある。車は盗まれるが、これも警察には届けられない。仕方ないのでこちらも誰かの車を盗み、逃避行する。そのたどり着いたあるまちで、受け入れてくれる素晴らしい女性と、荒くれ馬の調教を欲している牧場が見つかるのだった。
 いわゆるロードムービーで、行く先々で老人はちょっとした技能で奇跡を起こせる。お金も大して無いのだが、人々から求められる仕事ができる。追手の問題はあるにせよ、打ち解けて桃源郷の生活を送ることも可能なのである。少年にも年頃のガールフレンドができたようだ。さて、本当にこのまま国境を渡り、テキサスに行くべきなのだろうか。
 老人はさておき、少年はパスポートも持ってないだろうし、いくら陸続きのメキシコとはいえ、トランプ時代に国境の壁が厚くなったのではなかったか。いろいろ考えさせられるが、正規の方法で国境越えは極めて難しそうに思われる。そういう謎解きが待っているのかもとは思ったが、まあ、そういうことでもなかったけれど。
 イーストウッドが、本当によぼよぼになりながらもスクリーンに出ていることに価値のある映画と言っていいだろう。お話は単純でご都合主義だが、そういうことに何か言っても始まらない。ひとの顔面にパンチを食らわせるし、乗馬はするし、女性とダンスを踊りキスを交わす。それが楽しくない訳がないのである。年をとっても夢のような生活はできる。ただしクイント・イーストウッドならば、なんだけどね。
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生まれる前から病気知らず

2022-11-03 | HORROR

 遺伝子の組み換えは、様々なところで行われている。それは組み替えることで、何らかの都合の良いと考えられることが可能になるからだろう。もっともそれは、多くの場合人間に都合の良い、何か別のものであって、人間の遺伝子そのものを変えてしまうことは、多くの倫理問題が残っているはずであった。しかしながらそれが、例えば病気の治療のためであるとかということになると、軽々とそのハードルを越えてしまうことになる。そもそもの出発点が悪いことではなく、良いことであるはずだからだ。自分には関係の無いことだと思っている人は多いかもしれないが、しかしこれは着実に自分にも降りかかる深刻な問題であるということも、次第に分かりかけていくのではないか。
 それというのも、そもそもコロナワクチンも、一時的に遺伝情報を変えてしまう仕組みを利用したものだった。もっとも壊れやすい性質を利用して、一定期間を過ぎると壊れてしまうので問題が無いとされていた。それよりも感染を防いで、これ以上の被害を食い止めなければならない。結局日本で開発されることが今現在でもなかったが、先に開発されたからこそ使えた日本、というのもありそうな気がする。まあ、それは議論をしようとする本文ではないのですっ飛ばすけど、それはそれで問題だったのである。
 病気の治療のための薬の開発の中にも遺伝子を操作するものはあるが、一応これも今回は抜いておく。何らかの遺伝情報を変えることで、その人の病気そのものを治療しようとする試みが、すでに多くの場面で行われているらしい。それが難病であるとか、特定の疾患の治療に有効であるらしいことが次々に分かってきていて、実際に治験として成果をあげているものもあるという。それはその病気で苦しんでいる本人にとっても、福音に違いない。
 問題はそのために、その病気になってしまう原因の遺伝子も、分かっていくという話にもなる。そういうものが遺伝的にあるために、病気になってしまうということが明らかになる。そうであればということで、それが生む前に分かるために堕胎するというケースもある。それは病気になるだろうということが確率論的な可能性の問題であって、生む生まないは、選択できることにはなる。しかしそう判断された後に生むと選択されるケースは、当然少数になってしまう。そういう問題が明るみになる段階で、当事者もそうでない人も、うーんと考えてしまうことになる訳だ。
 さらに、そうした病気のリスクの少ない遺伝子操作が可能であると考える研究者は多い。生まれる前に精子や卵子の遺伝情報を事前に調べて、組み替えることも理論的には可能になり、実際にそうしているケースもありそうだ。そうやって遺伝子情報を変えたうえで、体外受精で母体に戻せばいいということか。そうしてそういう「治療」を望む人というのも、たくさんいるのではないか。もちろんそれは生まれてくる子供ではなく、生もうとする大人の問題である。
 今は流れとして、これらの産み分けのような倫理問題が解決されぬまま、技術と実験が繰り返されている状況かもしれない。どこかの国で実際の例が積み上がっていくと、自然と倫理問題も動かされていくことになるのではないか。そうして気が付くと、そうしている出産が主流化する可能性もある。すでにそのような未来を描いた小説だってあるやにも聞く。人間の欲求というのは、叶わないものがほとんどのようでいて、しかし大きな時間の経過とともに、考えた方に流れていく傾向がある。もちろんそれが、個人にとっても幸福なことばかりだといいのであるが……。
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考えても分からないが、そういうことはたまにある   ドライブ・マイ・カー

2022-11-02 | 映画

ドライブ・マイ・カー/濱口竜介監督

 原作では黄色のサーブ900だが、映画では赤である。舞台も東京ではなく広島になっている。そもそもこの小説で出てくる運転手のみさきの故郷・中頓別町の町議が、小説の科白に対して抗議し、それに悪乗りしたメディアが騒いだため、ちょっとしたニュースになったいわくつきの作品だった。不本意だったろうけれど、著者は場所を単行本に入る際修正させて、架空の上十字滝ということになった。映画ではそこに訪れるのだが、原作にそれは無い。そのように、さまざまな楽しみ方のできる作りになっていて、僕も例外なく、映画を観た後小説を再読し、微妙な、又は全く別の変化具合を楽しんだ。当然だがかなり味わいの違うところも多いながら、しかし何か、確かに本を読んでいるような、そういう解釈もあったように感じた。もともと不思議な感じの宿る物語だが、映画もそれなりに不思議な違和感に満ちていた。
 映画の方の設定で話をすると、主人公の俳優である家福は、広島での舞台演出を依頼される。それでその会場と宿の往復のために、運転手を手配されている。そのドライバーが、どういう訳か煙草を吸う若い女だ。しかし運転手の渡利は寡黙で、往復中舞台の科白をテープを聞きながら練習する家福にとっては都合がいい。また、当然のように運転の腕もいい。家福の妻はすでに亡くなっており、そうして生前妻は他の若い俳優と寝ていた。その若い俳優は、この舞台のオーディションにやってきて、家福はその俳優である高槻を採用し、主役に抜擢する。おそらくだが、妻と寝ていたというわだかまりが、彼にそうさせてしまうのである。高槻は、若く魅力的な俳優だが、舞台の主人公の男とは、年恰好やその雰囲気というものとまるで違った人間のように思える。演じながら高槻は、苦悩する。家福は死んだ妻とのことを思い出し、そうして自分には何も話さなかった過去のことに思い悩んでいる。そのようなことと交錯して、物語は進んでいくのである。
 はっきりとよく分かる娯楽作品ではない。映画なので、映像として彼らが何をやっているのかは明確にわかるのだが、しかしその何をやっているのかというのを観ていても、何のことであるのかはよく分からない。おそらく意味はあるのだろう。そういう感じで、確かに文学的な作品ともいえるかもしれない。数々の賞を取ったらしいが、そうであるから素晴らしいということでは無くて、観ていてなんだかもやもやはするが、考えさせられるから、いい映画なのだと思う。何しろ見終わっても、いまだに何か考えてしまう。もはや、いい映画なのかどうかさえどうでもいい。
 しかしながら、奥さんは、どうして他の男と寝ていたんだろう。やっぱり考えても、よく分からない問題だったのである。
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ガチ中華が日本で増えている?

2022-11-01 | 

 近頃は、ガチ中華の店が増えているのだという。事情は中国の主に若者が日本にやってきて、そのまま住み続けるケースが増えているというのが第一である。これは、そのまま聞くと、おそらく年配の人は誤解するものだろうから解説が必要だが、それは中国に帰って第一線の競争社会に戻るのが嫌だという若者が増えたせいであって、日本だと競争がゆるいうえに、やたらあくせくしなくても、そんなに贅沢を望まなければ、そこそこ暮らせる社会だから、トップクラスではないがそれなりの学力の人が、日本に残って仕事をしてくれているケースが増えた、ということになる。どうです? 分かりますかね、今の日本の状況が。
 と言う実際問題はあるにせよ、ガチ中華が流行るのは、やはり中国人は本格中華でないと、しっくりこないということなのである。日本にも中華料理店はたくさんあるはずだが、それは日本という社会にある程度カスタマイズされた中華であって、それなりに本格の中華もあるにはあるにせよ、やはりちょっと違うということでもある。さらに今は日本の中の昔からある町中華というものが注目されてもいて、それは大衆の中の日本だけの中華であって、実は中国のものとはかけ離れた料理である、ということもある。それと対比した形で、あえてガチ中華という新たな呼称を用いていると考えられる。
 そうしてこれは好みや慣れの問題だとは思うが、このガチ中華を日本人がふつうに美味しく食べられるのか、というのは、それなりにむつかしいのではないか、とも思う。何故かというと、やはりこれは日本の中華とは別のものであり、特に初めて食べる人には、はっきり言って衝撃的であろう。それほど日本の中の日本の味というのは、実はかなり個別のもので、局地的なものだということを知るのではないか。中国が変わっているのではなく、日本の食文化というのが、それなりに変わっている所為なのである。
 でもまあ僕は田舎に住んでいるので、日本にいる間にガチ中華の店に出会える機会は、そんなにないのだろうとも思う。中国人が働いて満足できる環境でさえないからだ。それは悲しむべきことかもしれないが、むしろ中国に遊びに行く機会にふつうにできることでもあるわけで、そういうことを待つよりない。それにガチ中華を食べていた時期というのが、実に遥か昔のことになってしまった。あの頃のようにおいしく食べていた自分を取り戻せるのかどうかさえ、もう自信がないのである。
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