カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

中途半端な断片を生きる

2022-11-27 | 境界線

 村上レディオで村上さんが、「映画館ではあんまりないけど、ビデオならだいぶあって、本も若い頃は頑張ってたけど、今は頑張っても良くならないことを知っているので(大意)」途中でやめることが多くなった。と語っていた。確かにそうだな、と思った訳である。
 しかし同時に、いまだにあんがい気になって、間をあけて再開するようなこともあるよな、とも思う。そういうのであたりもあるし、外れもある。
 要するに最後までいって、さらにがっかりするのが嫌なのである。途中で切り上げて、もう放り出してしまえたら、それはそれで人生をかなり有意義にできるのではないか。
 経済学の世界では、これはすでに解決済みの概念で、いわゆるサンクコストで説明できる。回収できない損失は、切ってしまうよりほかにない。というかそうするのが一番賢い。失った投資であるとか、過去の失恋などもそうだ。すでに取り返しがつかないものなので、今後の自分の将来には関係が無いことだ。引きずっても仕方ないじゃないか。要するにそういうことのように思う。まあ、詳しくは勉強してみてください。
 そうであるならば、映画や本というものであっても、面白くないと思ったら、とっとと止めて、もう放り出した方がましなのだ。何より時間の無駄でないし、新しくおもしろいものに手を出した方が自分にとっていいことだ。つまらない時間にお金をかけたとしても、ぜんぶ消費しなければ、損失額もわずかながら少なくて済む。お金は戻ってこないけれど、時間まで無駄にしないからだ。
 それは分かってるんだけどな、と考えている自分はいる。だってタルコフスキーの映画なんて、実に退屈で面白くもくそもないんだけど、その無駄な時間を観ていることが、いわばタルコフスキー映画の醍醐味だ。万延元年のフットボールだって、ずっと面白くなくて何のことやらわからないし文章はへたくその極みだけど、そのまま我慢して読んでいると、どういう訳か、後半一気に面白くなって満足するのである。そういうことがあるから、ほとんどの場合我慢しても読み続ける選択をしてしまうのだ。
 若い頃にそういう経験をしておきながら、しかしそれでもなお、ぜんぜん面白くもならないものの方が大半で、ちょっと見たり読んだりするだけで、あらかたこれはダメだと分かるようなことが多くなった(ように感じる)。そうなんだけど、これを観続けたり読み続けたりするのが苦痛なのにもかかわらず、ほのかな期待感のようなものがなかなか抜けるようなものでは無くて、やはり無理して続けてしまう。サンクコストが積み上がってしまう。損失がどんどん増えていく。そうして自己嫌悪に陥った自分を責める時間まで積み上がってしまう。なんということだろう。
 でも同時に体力のようなものが無くなったのも確かで、いくら時間を無駄にしても突き進むだけの力のようなものが、確実に無くなってしまった。そうなると詰まらなければ素直に眠くなるし、注意が散漫になって何も頭に入ってこない。ビデオなら途中で止めてトイレに行くと、もうなんだかもういいや、と気づいて他のことをしてしまうようになった。読んでいる本は放り投げられ、しおりが挟まったまま本棚に戻される。しばらくは気にならないわけではないが、同時に数冊読んでいるラインナップに復帰することが無くなるのである。もう体力が無いのだから、無理ができないし、僕の残りの人生の時間も減ってしまっているのである。消耗する余裕なんて、本当に無くなってしまったのだ。
 ということで途中で放り出す新たな習慣が、どんどんと生活の中を占めるようになった。もうほとんど多くの問題は、中途半端な断続である。終わりを知ることの無い始まりばかりの人生の残り時間、ということになるのだろうか。
コメント
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