英語のアポリア/トム・ガリー著(研究者)
副題「ネイティブが直面した言葉の難問」。ネイティブな発音ができるアメリカ人が、長年日本にいて英語を教えたり、また日本語を勉強した経験などから、主に日本における英語を考えてまとめた本。前にもそのような本は書いたことがあるようだが、必ずしもその続編ということではなさそうだ。
英語というのは、日本人にとっては大変に習得が難しい言語である。もっとも日本人は他の言語も苦手としている可能性があるが、戦後しばらくしたのちほぼ全員の日本人が強制的に英語を学習した経験から、これだけの労力と時間を要しながら世界的にもダントツと言っていいほど英語を苦手としている国民も珍しいという感覚がある。それらのことは、改めて深く考えてみると、実に当たり前の結果のようなのだが、日本人には容易にその考えに結び付く人が少ない。たまに英語をできる人もいないわけではないし、そこそこならできる人もいないわけではないことも考えると、ほとんどぜんぜんと言っていいほどできない自分のことを考えると、本当に情けなくなってくるものである。そうであるから僕は時々こういう本を読んでしまうのだろうけど、この本を手に取ってみて、改めて自分たちの無能さの理由を再確認することができたし、日本人がどのように英語に向き合うべきだったのかも、かなりの理解を深めることができた。また、英語そのものの将来についても、いわば国際語としてほぼ定着した言語であるにもかかわらず、ネイティブの英語が国際語になっているわけではないこともよく分かった。いわゆる標準の英語というものは限りなくむつかしい問題になっていて、ネイティブでないどうしの英語のコミュニケーションもあり得るし、ネイティブの英語が英語話者に通じないことが普通になることもあるのかもしれない。さらにコンピュータが翻訳する能力も格段に上がっていて、教育としての英語の危機も訪れている。
それぞれのトピックはたいへんに興味深く面白いのだが、それらは独立しての問題なのではなく、この章立ててあるお話の流れというのは繋がりがあって、いわば問題が絡み合っている。言葉の性質としてそうなってしまう場合もあるし、また生きている言葉の宿命としてそうなる場合もある。使用している人が様々なので、言葉というのはどんどん細分化していく傾向にあるらしい。もともとラテン語が共通だったのに細分化していった歴史にもあるように、英語というのはむつかしい袋小路に陥ってしまったようにも見える。
さらに学習者としての日本人の英語の学習問題の、議論の不毛さもある。発音や会話などの実用の英語については、当然ネイティブから習う方に分がある。そんなのは当たり前である。しかし教養としての英語という概念があって、日本語教師から日本語として理解する語学の英語、という側面がある。このことで英語に限らず、日本語自体も見直して学習する姿勢がある。これは必ずしも実用的につかえるものでは無いにしろ、最初から学ぶ手立てとしては、人によっては興味が続き、有用である場合さえある。どちらかがすぐれているということは無いにもかかわらず、この教育論争は果てしなく続いている。拍車をかけて、学習時期の低年齢化問題もかまびすしい。個人で違う問題を、すべての日本人に当てはめているので、この問題が宙に浮いてしまうものらしい。
本文は日本語ネイティブのチェックは受けているようだが、著者自身が書いた日本語である。オタク的な細部への見通しがあるし、組み立ても素晴らしい。日本語によるユーモアも感じられるし、なにより文章が上手いのである。楽しく読める上に、テーマの掘り下げはかなり深いものがある。英語学習者もそうでないものも、一緒になって英語問題を考えてみてはいかがだろうか。