そもそもそんなに寝つきは良くなかったかもしれない。しかし、そこまで意識したことも無かった。何故なら酒を飲んで横になると、いつのまにか寝てしまうから。それは寝つきがいいんだよ、という話になってしまうが、そうではない。酒を飲まない日があるからである。いろいろあって自分から言い出したことらしいが、休肝日というのがある。休肝日を取ることで、そう長くないかもしれない残りの人生においても、それなりに酒と付き合える時間が取れるはずだという漠然とした期待があるのかもしれない。それさえなくして時間を過ごすというのは、なんだかとても寂寞としたものを覚える。
眠れないというのは、かなりつらいものだ。布団の中にあって、時間だけが経過していく。退屈である。人生は暇つぶしにあるわけで、しかし暇でないように日中は努力できる。その努力ができないのが、寝ようとしている時間だ。何か考えているようでいて、何も考えられない。いや、何か思っているが、何かが巡っているだけで、ちゃんとしたまとまりのあるものではない。建設的なことを考えているわけでもない。眠れないと眠れないその事実のことばかり考えている。そうするだけで眠れそうな気がしない。もうどうとでもなれ、と思うが、どうにもなるものではない。そうしてウトウトしだして寝たはずだが、ふと目覚めたりする。まだ周りは暗く、そうして二時とか三時だったりする。ものすごくがっかりして、絶望する。でもまあ、その後眠れることもあるし、断続的にやっぱりだめだったりする。そうして、眠れないくせに昼間は眠くなる。
こういうのはつらいので、導眠剤を飲んでいる。処方してもらって本当に助かっている。僕には適当に効くらしく、大体眠れている。しかし、ときどきだが、なんだか寝つきが悪い時もある。そのまま効かないと、時間が経過してクスリの効き目も無くなっていくのではないか。その先には、眠れない闇が待っているのではないか。
実は眠れないという思いが、不眠を助長しているのだという。眠れないことが気にかかるというのが、そもそもの不眠の原因なのかもしれないという。眠れない結果が眠れないということだとばかり思っていたが、結果が原因とはそれはいかに、という感じだ。もちろん、そういう結果があって、その恐怖心が、次なる不眠の布石になってしまっているということなのだろう。
いや、大丈夫。薬は僕にはよく効くわけだし、なんだかんだ言っても、つまるところいつかは大部分の時間寝ているではないか。そうは思っている。眠れない恐怖と戦うのはまっぴらだ。僕は寝つきは良いのだ。酒を飲んでいるときは。そうでない日が違うのだと、思いたがっているだけなのではないか。それは単なる思い上がりではないか。多少違う条件だが、慣れるよりない。それも新たなる日常であり、これからの過ごし方である。そう考えるよりほかに、無いではないか。