池谷裕二のエッセイを読むと、政治信条は遺伝的であるという可能性があるらしい。少なくとも25%は双子で相関がある。さらに、大人の投票結果と比べると、子供が投票しても70%結果が一致するという。もっとも子供に選挙のポスターをみせて、自分たちが乗る船長を選んでもらう、という設定だったらしいが。これをもって大人たちが政治信条などをもとに選んだ人とほぼ一致するという結果において、政治信条が遺伝的であると類推されるということらしい。政治家と船長が同じようなものなのかどうかはよく分からないが、舵取りを取るようなことを政治家が本当にしてくれるのならば、そうなのかもしれない。それに大人たちの政治信条が、その子供たちにも影響しているから同じになるという考え方だが、実際はポスターなので、ひとは見た目で候補者の善し悪しを判断している可能性もある。そういう傾向が大人と子供との判断を同じくしているのではないか。そうであるならば、政治家のポスター撮影というのは、いくつも他と比較させて最善のものを選択するだけで、投票を有利にできるのではないか。
そういうことであれば、僕の場合は親と政治信条が同じである可能性があるか、思い出してみよう。ところが父は学生のころに友人が共産主義だった影響もあって、しばらくは共産党から出る人を応援していたようだ。それは一種のしがらみかもしれないが、僕が成人したとき、誰も応援してないのなら、その知り合いに投票して欲しいと言われたことがある。最終的にその人は落選してしまい、その後はそういうことは言われなくなった。その後父が政治信条的に共産党に投票していたとは考えにくい。これは過去の問題であり、現実的ではないと考えていたフシがある。戦争を経験しているので、敗戦後、大人たちが保守的な考えからがらりと左転換したことにショックを受けて、世の中のことをあまり信用していないと言っていた。結局経営者になったので、あまり労働組合的な考え方を好んでいなかった。現実的ではないとよくぼやいていたので、何か苦労させられたのかもしれない。
さて僕の方だが、僕はロック少年だったので、言葉の綾として反体制がカッコいいと若い頃には考えていた。そうしてそういう発言をよくしていてかもしれない。みんな大人が悪いと言っていれば、責任もないことだし、平和である。ラブ&ピースである。しかしながらものの本は読むし、論理的に考えて正しいというのが好きになると、音楽家は浅薄な人が多いし、責任感の強い人なんて少ないことを知る。政治的なことを強く言っている人が、何か正しい根拠をもって考えているかといえば、まったくそうではないようだ。単に無知だからそうなっているようにしか見えない。彼らは考えていないから大きなことを言えるのだ(それだからいい歌になるのだろう)。それに比べて働く人々は、苦労しながらも社会を構成することに責任を感じているらしいことも知る。メディアは対立さえすれば満足のようだし、つまるところ何をもって判断するのかは是々非々である。結局しかし人間関係は大切で、僕は保守的なアナーキスト(これは矛盾があるが)になってしまい、結局気の合う友人たちの同調で判断している。これはいったい遺伝的と言えるのだろうか。結局友達などを大切にしたいという考え方は、遺伝している可能性を感じる。
さて母のことだが、完全にノンポリである。さらにテレビにも影響される。しかし政治判断というのは、もうすでに分りかねる。以前は誰に強制もされず自分の考えを投票には反映できると言っていたが、おそらくそういうのをかっこいい言葉として覚えていただけのことだろう(と思う)。これは遺伝性がよく分からない。片方だけから遺伝したわけではないだろうから、僕と同じいい加減であるということは言えるのかもしれない。