カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

重要なものを先に選択なんて面倒だ

2022-08-24 | 境界線

 利根川進は著書「精神と物質」の中で、「アゲハチョウの模様がどうして地域によって異なるのかは面白い疑問かもしれないが、本当に重要な問題かどうかはよく考える必要がある。そのような小さな疑問に対する研究をいちいちしていたのでは、とても時間が足りない。もっと本質に迫る研究をするべきである」と書いたそうだ(著書は持っているが探すのがめんどくさい。今回は孫引きなので)。利根川先生は偉い人だとは思うけれど、ちょっと残念な印象も持つ。もちろん人間の時間は限られており、研究には時間がかかる。本質的で普遍的なことを証明するだけでもずいぶん骨の折れることだろう。だからこそ研究テーマを選ぶというそのものが、非常に大切なのだという本来の意味はよく分かると断ったうえで、やはりちょっと面白くないものも受け取ってしまう。それが事実であるし人生であるし人間の社会であると分かったうえで、そういう研究だけではダメなのではないか、と考えてしまうのである。
 もちろんこれは研究者に向けた言葉である。ひとの役に立つような研究というものは尊いものがあり、そういうものの優先順位を見極めることは、非常に重要という人間の立場がある。また研究費というのも、そういう目的に沿って優劣がなされている現実もあるのだろう。
 また、ダーウィンなどの先人であっても、彼の場合奥さんの側の資産があって、一度も就職することなど無かった。仕事をしなくて済むので、一生を研究に充てることができたともいえる。ダーウィンは特殊だが、しかし多くの科学者には、いわゆるパトロンが居たというのは、当然すぎる話だ。市井の研究者もいないではないが、いわゆる金のかからない研究を地道に自費で行っていたのだろうと思われる。また、生前には見返りなど無かった人も多いことだろう。そういう人の原動力となったのは、おそらく好奇心であって、時間がかかったり難しかったりつらいことなどもあろうけれど、それでも続けられたのは、研究そのものに面白みを感じていたからではないか。そういうものから逃れられない性質の人々だから、その後の発見等につながる功績を残せたはずなのである。
 もちろんそのこと自体を否定しているわけではない話なのだが、要するに無駄のようなものに見えることでも、面白ければ没頭してやればいいのではないか。マッドサイエンス的なものは困るのだが、そういう倫理的なことと関係ないのであれば、面白ければGO!という感じが無いと、研究なんてやってられないのではないか。
 幸いというか、毎年のようにイグノーベル賞の分野では、日本人研究家が選ばれている。外国人にとって理解しがたい分野の研究をしているということもあるんだろうけれど、日本にはそのような許容のある社会性がそもそもあるのかもしれない。それとも単に変人が多いということだろうか。個性なんてものは勝手にあるものである。周りの目なんて気にせずに、みんな頑張っていきましょう。
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