食べ歩きが好きというか、そういう具合に興味をもってそれなりに有名な店などに行くようなことがなかったわけではない。出張もあるわけだし、せっかくだからと下調べしたり、現地の人が気を使ってくれたり、という事がある。そういう店だというだけでも、感慨深いものがあるし、現地レポートではないが、自分の感覚を試すような、そんなちょっとした興奮を味わうこともあるようだ。単なる観光で楽しいもあるし、観光でなくとも、地元の知らなかった、もしくは新しい名店をめぐるような、めくるめくひと時である。
今はSNSもあるわけだし、自分もそのようにタイムリーにUPするのは、やはり楽しいものである。有名店は、知人でも当然知っている訳で、コメントがもらいやすい。中にはあそこはいまいちで……なんて物知り顔の人間がいないではないが、そういうめんどくさいことはさておいて、盛り上がることはあるわけで、そういうものも実際の味とは違った楽しさがあるものである。もちろん、おいしいという体験が何よりで、ああ、やっぱり来てよかったなあ、という追体験が何度も訪れるひと時かもしれない。
しかしながら、ラーメンレポートなのである。というのも、ラーメンだとどういう訳か、これがあまり素直にいかないところがあるように感じる。ラーメンは、一応庶民の食べ物という認識がなされていることもあり、予約制のところが皆無とは言わないが、腹が減ったら店に行き、人が多かったら多少は並んで食べるという感じになっている。僕は田舎に住んでいるものの、有名店になると、時間帯では並んでいるようなことにたまに遭遇する。出張中の都会では、これがものすごいところがあって、行列だけ見て断念することも少なくない。人生の時間は限られており、さらに滞在時間も限られているのである。
で、そういう店の多くにネットではコメントがつくわけだが、驚くことに、ものすごくこき下ろしたコメントが並んでいるのでいるのである。あたかもこの店のモノは人間の食べ物ではない、とでもいうようなひどい言い回しもある。それを食べた人の感想ではあるのかもしれないが、むしろそれは本当に同じ人間が感じ取れる感想なのか疑わしいほどなのである。グルメを講じる人ではあるが、ちょっとおかしい人なのかもしれない。
そうは思うが、何が一体この人をここまで狂気にいざなうのであろうか。作っている人には失礼かもしれないが、ラーメンである。まずくても一食のことで、食わなければいいだけのことである。中には確かに千円近くする金額の店もあるが(もちろんそれ以上も)、そうであったとしても、被害額は知れている。高級店ではむしろがっかりするところも少なからずあるように思うけれど、おそらく顧客が少ないという事もあるのかもしれないが、ここまで、というのはあまり感じられない(ないとは言わない)。勝手な想像だが、ラーメンの味を総合的に知っている人などそんなにいない世の中において(なぜならラーメン店は多すぎる。毎日食べたとしても網羅することすら不可能な領域である。少なくとも人間生活を営む上において)、ラーメンを総合的に語れる人など、年季を重ねない限り無理なのではないか。なにしろ一年は365日で、今ネットで調べたら日本にあるラーメン店は24,257店あるそうだから、一日一店食べたとしても66年かかってしまう。一日に複数食食べるというツワモノがいたとしても、好きなラーメン店を定期的に食べたりすると時間をロスしてしまう。さらにラーメンのように食塩過多の食品ばかり食べて健康にいいはずもなく(僕の知り合いのラーメン愛の強い人は早死にばかりである。ラーメンは毎日食べると確実に寿命を減らす恐れが強い)、すべて網羅する前に人間の限界が来るのである。
という事で、グルメというのは、究極に旨いものなんてものは幻想にすぎない。自分のコンデションもあるし、あくまで個人の体験世界である。旨いものはほぼ無尽蔵で、それらをランキングなしに今の瞬間に味わい尽くすことが、おそらくはグルメの王道である。比較のための記憶がそれを助けるのであれば幸福だが、そうでなければ比較などというのは愚の骨頂である。今自分が旨いという事を信じられない人間は、単に愚かで不幸なのだ。
まあそういうことで、自分の思いは他人とは違う。あたりまえのことを感じ取れない人間には、そもそも比較などできないという証明であるだけのことだ。ラーメンのコメントで分かりえることは、そのような精神性のゆがみであるだけのことであろう。