カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

どうして他人(ひと)にも読んで欲しいのだろうか

2022-08-25 | 読書

 本を売るためのうたい文句だろうけれど、「泣ける本」だとか、「感動に震える」だとかいう言葉は確かに氾濫している。映画なんかだと「全米が泣いた」とか書いてある。そんなことがあるはずないが(北朝鮮ならあるかもしれないが)、こういうのを見て、「そうなんだ、凄い」ってことになるんだろうか。
 しかしながらこういうのは安易すぎるのではないか、と憤慨している文章を読んだ。本などを読んだ後に、個人的に泣ける場合は確かにあろうが、そういうものを読む前から求めて読んでいいものか、ということらしい。本を読むというのは、それなりに読むことの葛藤があって、時には苦労しながら読み進んでいかなくてはならないこともある。安易に事前に泣いたり感動を求めて読むなんて言う精神性がよこしまなことであり、見返りを期待する読書などは邪道だという。さらにお手軽に報酬を求めすぎているのはどうなのか、と嘆いておられた。
 言われていることは分かるのだが、思わず笑ってしまった。そんなに苦労して読書する必要なんてそもそもあるんだろうか。お手軽な人がいても仕方ないし、そもそも読書なんてしない人の方が普通であるなら、それでもいいじゃないか。確かに苦労して読んで良かった経験もたくさんあるのは分かるし、実際そういうことはある。ちょっとノレなくてつらいな、という読書はある。しかし先に何かありそうな期待のようなものがあって読み進められる場合もあるし、単に暇だから惰性で読み進めることもあるし、読まなくてならない義務感の時もある。結局そのまま面白くない苦行に終わる酷い経験もあるわけだし、そういうものが必ず報われるとは限らない。放り出してしまうことだってあるだろうし、そうなってしまっては、本当にその後がどうなったなんてことすらわからない。しかし、そういう体験も含めて読書であるわけで、自分なりにそんなものは決めて読めばいいだけのことである。
 もちろん、そういう経験もいとわずに本を読んでもらいたい、という気持ちがあるのだろう。本を読んで感動する体験を、読まない人にもしてもらいたい、ということか。そういうものは実際に本を読んでもらわない限りは経験できない訳で、地道に頑張って欲しいのだろうと思われる。
 でもまあ、本を読んでみたいけど読めない、という人の話を聞くと、時間が無いとか、読んでいるとつらくなるとか、他にやることがあるとかいう。まあ他にもいろいろ理由があろうが、要するに本を読んでみたいという漠然とした思いは嘘ではないかもしれないが、優先順位としてそれがあまり上の方ではない、ということではないか。そういう人が無理に本を読んだところで、さて、泣くまでどれくらいに道のりがあるのだろう。
 でもまあ実際の読書というのは、読みだせばいつの間にか読み進んでしまうというのが実情で、つらい時間も確かにありながら、やはりその苦行も含め、どうにも先が気になるというか、この難しさを理解したいというか、とにかく止められない自分がいる。上手くいかなくて途中でやめたとしても、また手に取ってしまうような自分がいる。要するになんだか気になるのである。そうすると何時間も要しながら、結局はつまるところ読んでしまっている。読書家の多くはたぶんそんな人たちばかりであり、少なくとも僕はそんな感じかもしれない。しょうもない習慣だとは思うが、また本を手に取って読んでしまうだけのことである。もちろん寸暇もなく忙しかったり、別のことをしていたら本は読めない。でも気が付いたら、本というのは手軽に手元にあるものだ。この中毒性から逃れる方が難しい。そこまで感じられるほど本を読みたい人というのは、やはり限られたものではないか、というのが、実感なのである。
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