カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

鰻とは距離を置いていたが

2022-08-31 | 

 隣の市は鰻が有名なので、子供のころから鰻は身近である。とはいえそんなに頻繁に食べられるものではないので、ごちそうだったことは間違いないが、しかし結構食べさせてもらっていたかもしれない。今考えると、うなぎ屋ばかりとは限らなくて、それなりに家でも食べていたので、鰻を買ってきて焼いて食べていたのだろうか。今のように毎日スーパーで買えるようなものだったかどうかまでは知らないが、弁当などに鰻の切れ端のようなものがある場合もあったし、宴会のようなとき、鰻が付いているものもあった。地元の料理屋でも鰻を出すところはあって、そういうものを食べさせてもらったこともある。さすがに子供同士で鰻を食べに行くというのは無かったので、高かったのかもしれない。
 鰻をさばいてくれる専門の小屋のような店があって、今考えてみると、養鰻屋がそのまま分けてくれていたのかもしれない。とにかく父に連れられて、買い物がてらそれを眺めていたものだ。鰻に電気ショックを与えて弱らせたものに、くぎのようなものを打ち付け、包丁を入れてさばいていく、実に見事なもので、それを何匹か買って、家で調理してもらっていたのではないか。そういう時に父は楽しそうで、しかし持ち帰ると母は大変そうだった。そういう鰻は確かに旨かった。
 しかし基本的には、鰻はお出かけに行って食べるものである。鰻屋で食べる鰻は値段も高いし量も少なかった。しかし鰻なのだから、それでいいのである。鰻屋で腹いっぱいになれるような成長期の子供はいない。だから段々と、ありがたいながら、うなぎ屋でなくてもいいかな、とは思っていた。蕎麦屋なら蕎麦湯をたくさんもらって腹を膨らませられる。ウナギを食べてカツ丼を食べるようなことは、なんとなく邪道で許されるものではない。
 大人になってから、というか、若い頃にはお金が無いので、しばらく鰻を食べていない時期があった。選択肢に鰻が無くなってしまったのである。でも無理をしていたということではなく、特に食べなくてもいい時期ということだったのかもしれない。そうすると鰻のことは忘れてしまっていて、特に食べたくも無くなる。そういう時期がしばらく続いて、何かの折に鰻を久しぶりに食べてみると、何かこれはずいぶん味が濃いものだったのだな、と思った覚えがある。鰻自体は実際は味はたんぱくなもので、たれをつけて焼くと、淡白ながら脂が乗った身にたれの味がまんべんなくしみ込んで、おいしくなるのだろうと思う。さらに諫早などはこれを蒸して、身をさらにふっくらと柔らかくする。店によっては焼くだけのところもあるが(九州のよその店は、そういうところが案外ある)、基本的にお店で鰻を売りにしているようなところは、蒸してあるのが普通ではないか。ああいう柔らかさとともに、鰻の至福感はあるようにも思う。
 ということで、特に大好物ではないのに、高級でありがたい食べ物の代表が、鰻のような気がする。時々出張で鰻屋の看板に惹かれることがあるが、一人で食べるのはずるいというかもったいない気がして、諦める。鰻というのは、そういう食べ物なのかもしれない。
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