カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

読んでなんだか燃えてくる本   読む・打つ・書く

2021-10-15 | 読書

読む・打つ・書く/三中信弘著(東京大学出版会)

 副題「読書・書評・執筆をめぐる理系研修者の日々」。書名から受けるだろう印象のとおり、研究者の世界をヤクザなものと同じだというとらえ方をして、多少自虐的に読者に伝えた内容と言えるだろう。そういうひとも確かにいるだろうとは考えたことがあったが、実際に本当に赤裸々にこの世界のヤクザな実態をあらわしたものは、これまでそんなに無かったのではないか。それというのも自分の頭がいいと考えているだろう学者に多いのは、ついあふれ出てしまう我が事自慢のようなものがあって、周りの人に実際に凄いのがいるものだから、ついつい対抗心のようなものに火がついて、自分でおこなった小さなことであってもすごく過剰に表現したり、時には努力をしたことは隠す癖に、実績めいたことはあれもこれもと出し惜しみしきれない人がいるのである。もちろん本著者がそんなことをしてないという保証は無いが、ふつうに自分のことを開示しているだけの内容であっても、それなりに他を圧倒している感があるので、必要ない邪念であることだろう。読むために多量の本を買って、そうして積読はもちろんされているうえに、しかしやっぱり内容を読んでもいて、さらにそれを吟味して調べまくり、頼まれてもいない(頼まれもするが)書評を書き連ね、それもそれだけでなく媒体によっては書き分け書き足したりもする。そうして自分で本の執筆もする。翻訳もするし、当たり前だが論文も書くだろう。文中にもあるが、まともにやればいくつもの人生だが、いやいや、ふつうの人から見ると、これらの著者の個人の歴史そのものが、すでにいくつかの人生であるばかりか、ちょっとそれが深すぎるのである。
 とにかく理系の研修者であるから、物事をできる限り正確に、そうして足跡もしっかり残そうとする執着心が凄いのである。研究者の態度ということから考えると、当たり前すぎるほど当たり前なのかもしれないが、僕からすると、これは何かにとりつかれた怨念のようにしか見えない。しかしながらそうであるからこそ研究というものがなされていくのだということも同時に理解される訳で、他の研究者であっても、やはりそうであって欲しいと願うことにもなる。いやひょっとするとそうでない人もいるかもしれないと、これを読んで改めて考えさせられるわけで、ちょっと恐ろしいことかもしれないとも思った。それというのも僕がふだん読んでいるものの多くは、特に研究書というわけではない。読んで目から鱗が落ちたり、改めて目覚めさせてくれたものもたくさんあるのだけれど、中にはそれなりにいい加減な内容であったとしても、それと気づかないままそうなってしまった自分がいるのではないか、と考えてしまったからである。これだけの信念でもって研究のなされた上に書かれたものを読むような経験というものを、実は読書人の少なからぬ人は、知らぬままに読んでいるのではあるまいか。
 しかしながらこの本は、普通からすると深淵なる迷宮世界であるが、それはやはりローマは一日にしてはならずであって、日々の仕事のやり方に関してのハウツーにもなっている。下手なビジネス書を読んでやる気にだけなって三日坊主で終わるより、かなり実用的なのである。要はつべこべ言わずに毎日がんばれの記録と実践が、あっけらかんと開示してある。そうして理系関係に関して精神的にちょっととっつきにくい人にとっても、読むのに苦労せずとも面白く読める文章になっている。くだけすぎてオタクっぽいところもあるが、まあ、愛嬌である。気が付いたらどんどん読み進んでいるはずで、本文の文字総数は気にならなくなるだろう。さらに資料としてのリファレンスにもなるはずで、これはもう一家に一冊、ということになるんではなかろうか。
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