渋谷知美の「日本の童貞」(河出文庫)を読んでいると、童貞というのを定義するのがなかなかむつかしいということを知った。狭義に考えると、「女性と性交したことがない男」のことだと思っていたわけだが、そういう風に定義上思っていないと思われる人々が、たくさんいるらしいことを知ったのだ。
どういうことかというと、そもそも性交をどのようにとらえるかということが、なかなかにややこしい。挿入は果たしたかもしれないが、ちゃんと射精したかどうか、というのが、一応ある。先が入った瞬間で喪失なのか根本までなのか、などというその時間軸を気にすることもできる。中には女性のことを考えてオナニーして射精した時点で、喪失だと考えているような妙な人もいる。
さらに童貞をさす人物像にも問題がある。例えば赤ちゃんは間違いなく童貞だが、しかし童貞とはされない。ということは、ある程度成熟した男性である条件が必要なようだ。勃起はするが小学生くらいで一応したくらいでは(射精は無し。また、そういう例が・告白としてあるという)、本当に童貞を喪失したと言えるのだろうか? ということになると、いわゆる挿入が可能であっても、やはりもう少し思春期めいた少年以上でなければふさわしそうではない。
そうしてこれは一種の恥辱的なニュアンスが無ければならないらしく、女にもてまくって、周りに美女をはべらせておいて、実は童貞であってはならない。そういうのは実際に童貞であっても童貞と認められない(らしい)。そうであるはずなのに、もてない男がなんとかペッティングなんかして、いざ、というときに膣外で射精したとしても、これは何と言っても童貞のままだろう。童貞は喪失したが、それが風俗であれば、真の喪失ではないという人もいるだろう。
そんなこと言っても、どうせ見た目では分かりえないことであるのに、どうしてそういうことにこだわりたい人がいるんだろうか。いや、確かに思春期のそういう時期には、深刻な問題だったかもしれないけれど……。単にやりたい気持ちがありながら、それが叶わない哀しさや滑稽さが、まさに悲哀を込めた童貞という状態を指しているせいであろう。
吉行淳之介は、世の中に童貞がいることを忘れる、と確か書いていたが、そんなに威張らなくてもいいじゃないか、と思った記憶がある。要するに男というのは、そういう決定的な変化があるということを言いたいらしい。しかしながら童貞で死んだからと言って、それが男ではなかったとは言えない。そういうことにこだわりたい心情の人間性があるだけだという気がする。また童貞か否童貞かということを取り上げて、純粋であるとか純情であるとか、そういうことを語りえるものではない。童貞でも汚らしい人はいるし、また逆の場合がいても自然である。まあ、案外めんどくさい状態であることには変わりないようで、なんとかしてそういう時期を脱したいということではあろうが。
愛や恋愛は重要であるようなことは、いろいろな語り方で表現されているわけだが、つまるところ、やっぱり人間は動物なんだ、ということに尽きるのだろうけど。