カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

番組のBGMでかかる曲

2021-09-15 | 音楽

 沢村貞子さんの料理日記をもとにしている「365日の献立日記」を楽しみに見ている。しみじみいい番組だ。(これは前にも書いたが)
 ところでこの番組は、音楽にも個性的なところがある。ほとんど知った曲はかからないが、多国籍でいろいろ選んでいるらしい感じはする。軽めのポップスというか、いい感じの曲である。でも普段聞く音楽と全く分野違いだと、これがまた見当がつかない。こういうのはエンディングの番組のクレジットで使った曲を紹介するとか、そういうことをしてくれないかな、と思う。録画しているので、あとでメモできるし、またはネットで紹介するとかしてくれたらいいのに。
 でもこの間はロバート・プラントがかかってて、ちょっと嬉しかった。しかしまあロバート・Pさんは、実際ツェッペリンよりも、こんな甘い曲をたくさん歌いたかったのかもしれないな、ってつくづく感じましたけど。
 テレビの番組で知った曲がかかるっていうのは、なぜかうれしいものだ。別に僕のためにかけてくれているはずなんてないのに、がぜん興味がわくものだ。番組の制作人に好きな人がいるのかもと考えられることで、共感を呼ぶのかもしれない。
 録画してみる番組の定番に、「新日本風土記」というのがある。これも観ていると、ときどき耳に残る曲がかかる。しかし知らない。最近はこういう曲を調べるアプリのようなものがあるというが、商品誘導であることもあって手を出していない。鼻歌でも検索できるというので試すと、まったく違う曲だったりする。まあ、一人で携帯にフフフーン、フフとか何とか言ってるのは、いくら誰も見ていないとはいえ、結構恥ずかしい。
 それで、歌詞をメモして検索すると、引っかかった。そうして知ったのが「思い出野郎Aチーム」だった。曲は「ダンスに間に合う」だった。曲調が何となく「面影ラッキーホール」みたいな感じもあったけど、それよりはずっと健全なのでご安心を(けど面影ラッキーホール、興味ある方はググってみてください。不健全でいい感じですよ)。
 僕は普段はもっぱらラジオで聞いた曲をもとに、好きなものを選んでいる。小学生のころからずっとそうしていて、そういう風に曲と出会うというのが自然すぎることである。しかしまあ、実際にはいろんな場所で曲は聞いているわけで、それ以外の出会いがあってもいいはずだ。ただ、聞き流して逃してしまっていただけのことだろう。しかし今の時代は様々な検索が可能になっていて、今まですり抜けてしまっていたものが、少しだけひかっかることが可能になりやすくなっているのであろう。
 そういうことなんだが、実はジャスティン・ビーバーの曲がなかなかいいじゃん、と思って検索すると、CDの発売は無く、ネット配信のみの購入しかできないことを知った。将来のことは知らないけど、僕は古臭い人間で、そういわれると一気に要らない気分になって見送った。さよならジャスティン・ビーバー。僕らには、相性がまだ合わないところがあるみたいだね。
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閉塞感のある殺人事件   罪の手ざわり

2021-09-14 | 映画

罪の手ざわり/ジャ・ジャンクー監督

 4つの群像劇になっている。というかオムニバスのような感じか。お話はつながりなく独立しているように見える。一つ目はまちの炭鉱の利益を独占する個人資産家と村長に逆恨みして、逆切れする男の話。二つ目は家族には出稼ぎと偽って、強盗殺人を繰り返しながら生きている男の話。もう一つは不倫相手の男の妻から復讐された上に、やくざ者に言いがかりをつけられて逆切れする女の話。最後は、仕事のトラブルで別の町に流れてバーテンの仕事をする若者が、売春まがいのダンサーに恋をするがハードルが高く、また元のトラブル元のチンピラに脅されて……。というもの。おそらくだが、今の中国社会のどうにもならない閉塞感を映像化したという感じの作品群なのかもしれない。
 しれない、というのは、実際にはこの話の意味というのは、最後までよく分からないのである。監督としては、単にバイオレンスを描きたくて、その水戸黄門的なカタルシスを狙ったのかもしれないのだけど、説明はないので、何か深読みできそうな感じのある映像になっているのだ。しかしながら大して意味なんてたぶんない訳で、ショックとしての映画作りなのだろうと思う。名作感があってなかなかいいというのは分かるけれど、それ以上なのかというと、そうでもないんじゃなかろうか。
 散弾銃で撃たれる人の姿がこんな風になるんだろうな、というのは、それなりにショッキングである。他にも銃は出てきて人が殺されるが、中国であっても、銃というのは手に入りやすいものなのだろうか。三作目は果物ナイフなのだが、これも使い方によっては、非常に殺傷力が高いのかもしれない。急にうまいアクションのような展開になり、どうしたんだろう、とは考えてしまうわけだが。
 ちょっと前の映画かもしれないが、今時でありながら煙草を吸う人は多いし、庶民とやくざものの境もあいまいだ。暑いのかもしれないけれど、何か皆急に薄着になったりして、誰もかれもだらしなくやくざ的だ。そうしていつ暴発するかわからないような緊張感がある。そういう中で、人々は不機嫌に暮らしている。そういう一定の空気感が、今の中国の現実を伝えているということなのだろうか。そうかもしれないし、何か本当には分かりようがない。(※後で調べたら、実際の事件をヒントにしてドラマ化したのだそうだ。事実がどのように起こったか、推察して映画にしたということだろう)
 あとでネットで確かめてみると、この映画、今でも中国では公開されていないのだという。意味深だが、これを一般大衆に見られるとマズイ、と思っている中国共産党がいるんだろうか? それこそが、映画的には一番面白い感じがするけど、どうなんでしょうね。一般の中国の人に、ぜひ見てもらって感想を聞きたいものである。
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あの頃をジャンキーがふりかえると   少し不思議。

2021-09-13 | 読書

少し不思議。/天久聖一著(文芸春秋)

 居酒屋でトイレの鍵をかけ忘れたのであろうドアを開けると、しゃがんでいる女性のうしろ姿を見てしまう。慌てて閉めるが、そのままそのネタで飲み続け泥酔する。翌日夕方目が覚めると、昨日の居酒屋のトイレのスリッパで帰ってきてしまったことに気づく。仕方なく昨夜後輩めいた奴と飲んでいた店に電車を乗り継いで行こうとするが、方向音痴のために店を見つけられない。携帯も充電中で持ってなかったので、結局確認することもできないまま帰ることになる。そうして自分の住まい戻ると、一人暮らしだったはずの自分の部屋の中に女が待っていた。怖くなって逃げ出してしまうのだったが……。
 まあ、ほんのさわりの部分でこんな感じであって、どんどん妙な具合の自分語りのような物語が続いていく。しかし現実は前とちょっと変わっていて、女と一緒の生活がいとおしくなっていくわけだが、実際は自分は知らないことがおおすぎる。何かがおかしく、そうして狂っているのかもしれない。そういえば確かに自分には覚えがあって、ジャンキーだった過去がある。そのころには妄想を見ていたし、無茶なこともやっていたかもしれない。そうしてやっぱり不思議なことがあるもので、ねこ爺についていくと、ますます暴走した世界に迷い込んでいくのだった。
 私SFとか虚実REMIXとか帯に書いてあって、これは作者自身のコピーだというけど、今となってはネタバレになるが、ピエール滝がコメントを書いていて、要するにジャンキー小説なのだ。日本では、なんとなく危なっかしいので、そういう感じということにしたんだろう。実際に作者は漫画家でありクリエイターということらしく、こういう感じは実体験済みなのではあるまいか。そういうものに多少付け合わせて大震災と原発事故を描くと、この世なことになったというのであろう。何もかも書きにくくなった一時期のことを思うと、それなりに冒険だったことも分かるし、そうして今読み返してみたとしても、それなりの当時のリアルがかえってあるようにも思う。もちろん僕の体験とは違うものだけれど、あの頃に何か小説的なものを描こうとして苦労した作家というのは数多くいたわけで、そういう意味でもかなり正直な表現なのではないかと感じた。
 ところでこれをいったい何で知って読むことになったのか。毎回のことではあるが、あまり僕とつながりのあるような人ではないのだが、読んでしまえたことには、それなりに新鮮味があったかもしれない。年齢も近いようだし、通じ合うところがあるんだろうか。
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ほんとにこんな人いたんだね   キーパー ある兵士の奇跡

2021-09-12 | 映画

キーパー ある兵士の奇跡/マルクス・H・ローゼンミュラー監督

 第二次大戦末期、イギリス軍の捕虜となったドイツ軍兵士バートは、収容所内でサッカーをしているところ地元のサッカーチームの監督に気に留められ、助っ人キーパーとなる。能力は高く活躍はするが、敵国の選手であることから、当初からチームメイトや地元の人間から快く思われていないところはあった。終戦後、監督宅の裏方仕事などを手伝うかたわら、サッカーでは相変わらず活躍している。そういう中、今度は名門マンチェスターシティの監督の目に留まり、スカウトされる。能力は高く評価されるものの、英国のユダヤ人団体や、クラブチームのサポーターからも激しい非難を浴びながら試合に臨まざるを得ない。また、バートはナチスの勲章まで授与されている兵士でもあったし、戦争中のある体験から、心にトラウマも抱えていたのであった。
 捕虜時代のクラブチームの監督の娘とも仲が良くなっており、結婚をして長男をもうけている。そうしたこともあってか、ドイツには帰国しなかったのかもしれない。これは一種の伝記映画で、実際にこのような選手が英国スターとして存在していたらしい。凄まじい圧力を受けながら、圧倒的な守護神としてのプレーを見せることで、大衆の信頼を得ていく。英国人の多くも、戦争の憎しみを抱えながら、戦争責任を個人への嫌悪へ向ける精神を問われているということかもしれない。
 この映画で語られているエピソードと、実際の史実との絡みについての事実関係は知らないが、映画としての脚本の運びは、見事としか言いようがない。様々な困難が降りかかる中にあって、実直にサッカーの試合に臨んでいくしか方法がない。そういうものをはねのけて活躍する中で、さらに精神的に耐えられないダメージを受ける事故まで起こってしまう。こんなことが実際に英国であったことだなんて、にわかには信じがたい。あまりにも映画的な物語であるように思えるからかもしれない(後でググったら、それなりに時系列は調整してあるようだ)。
 サッカー選手の伝記ものでありながら、戦争というものを多面的に考えさせられる映画になっている。単純な反戦映画ではなく、人間の感情を整理させる映画ともいえるかもしれない。実際に終戦後、数百万人のドイツ人が(報復等で)殺されたわけで、敗者というのは簡単には戦勝国からの攻撃を免れ得ない存在だった。しかしバートは帰国を拒み英国に残留した。そういう存在だったからこそ、英国人の後の世の戦争への大衆感情を、大きく変え得た人物だったのかもしれない。
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童貞はむつかしい

2021-09-11 | 境界線

 渋谷知美の「日本の童貞」(河出文庫)を読んでいると、童貞というのを定義するのがなかなかむつかしいということを知った。狭義に考えると、「女性と性交したことがない男」のことだと思っていたわけだが、そういう風に定義上思っていないと思われる人々が、たくさんいるらしいことを知ったのだ。
 どういうことかというと、そもそも性交をどのようにとらえるかということが、なかなかにややこしい。挿入は果たしたかもしれないが、ちゃんと射精したかどうか、というのが、一応ある。先が入った瞬間で喪失なのか根本までなのか、などというその時間軸を気にすることもできる。中には女性のことを考えてオナニーして射精した時点で、喪失だと考えているような妙な人もいる。
 さらに童貞をさす人物像にも問題がある。例えば赤ちゃんは間違いなく童貞だが、しかし童貞とはされない。ということは、ある程度成熟した男性である条件が必要なようだ。勃起はするが小学生くらいで一応したくらいでは(射精は無し。また、そういう例が・告白としてあるという)、本当に童貞を喪失したと言えるのだろうか? ということになると、いわゆる挿入が可能であっても、やはりもう少し思春期めいた少年以上でなければふさわしそうではない。
 そうしてこれは一種の恥辱的なニュアンスが無ければならないらしく、女にもてまくって、周りに美女をはべらせておいて、実は童貞であってはならない。そういうのは実際に童貞であっても童貞と認められない(らしい)。そうであるはずなのに、もてない男がなんとかペッティングなんかして、いざ、というときに膣外で射精したとしても、これは何と言っても童貞のままだろう。童貞は喪失したが、それが風俗であれば、真の喪失ではないという人もいるだろう。
 そんなこと言っても、どうせ見た目では分かりえないことであるのに、どうしてそういうことにこだわりたい人がいるんだろうか。いや、確かに思春期のそういう時期には、深刻な問題だったかもしれないけれど……。単にやりたい気持ちがありながら、それが叶わない哀しさや滑稽さが、まさに悲哀を込めた童貞という状態を指しているせいであろう。
 吉行淳之介は、世の中に童貞がいることを忘れる、と確か書いていたが、そんなに威張らなくてもいいじゃないか、と思った記憶がある。要するに男というのは、そういう決定的な変化があるということを言いたいらしい。しかしながら童貞で死んだからと言って、それが男ではなかったとは言えない。そういうことにこだわりたい心情の人間性があるだけだという気がする。また童貞か否童貞かということを取り上げて、純粋であるとか純情であるとか、そういうことを語りえるものではない。童貞でも汚らしい人はいるし、また逆の場合がいても自然である。まあ、案外めんどくさい状態であることには変わりないようで、なんとかしてそういう時期を脱したいということではあろうが。
 愛や恋愛は重要であるようなことは、いろいろな語り方で表現されているわけだが、つまるところ、やっぱり人間は動物なんだ、ということに尽きるのだろうけど。
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けっこう盛り上がって面白い   T-34 レジェンド・オブ・ウォー

2021-09-10 | 映画

T-34 レジェンド・オブ・ウォー/アレクセイ・シドロフ監督

 第二次大戦中、ドイツ軍がモスクワ近郊まで攻め入ってくる中、一台しか戦車が残っていないにもかかわらず、寒村に待ち伏せてドイツ軍を迎え撃つことになる。敵軍はさっさと鎮圧前進したい考えだが、ここで若きロシヤの指揮官が機転を利かせて、敵の戦車を次々に撃破し翻弄することになるのだった。
 時はながれ、当時の指揮官だったイヴシュキンはドイツ軍の捕虜になっていた。何度も脱走を図り反抗的な態度をとるため、ほぼ死刑が確定し拷問を受けていた。そういう中にあってドイツ軍は、若き戦車部隊の実践能力を高めるために、実地訓練に近いものを計画していた。そこで元戦車部隊(当時は単体だったけど)を率いて活躍した能力をかわれて、この作戦で戦うことを厳命されることになる。実弾を装備しないままで戦うという無理な設定ではあったが、戦場から旧T34型の戦車が引き上げられており、これを整備して使うように言われる。戦車の中には仲間たちの遺体が放置されたままであったが、実はそのために実弾が死体の影に隠されたままであった。これをチャンスと見て演習に見せかけて逃走を計画するイヴシュキン達であったが、もちろんドイツ軍もそれは見越しており、演習場周辺は逃亡防止のために地雷が埋められているのだった。いったいどのように戦い国外へ逃亡する道があるというのだろうか……。
 というストーリーなのだが、ロシヤでも大ヒットし、日本のような国においても、ロシヤ映画の作品としては異例のヒットを飛ばしたとされる作品である。ロシヤは文芸物や音楽関係の作品であれば、たまに佳作が観られるという感じであるから、このようにモロにCG多様のハリウッド的なアクション大作が、注目されることは少ない。というか知らなかった。
 史実がどうなのかというのは一切無視して、さらによく考えるまでもなくストーリーに必然的な背景の設定にも問題があるが、しかし観ていて面白く燃えるのは確かだ。これだけ男臭い戦闘の物語にありながら、ちゃんとロマンスもあり、娯楽作としてそつがない。そうして実際にダサい映像になっていなくて、展開も息をつかせないし、実際の戦闘の場面も迫力があって面白いのだ。娯楽作はこうでなくちゃ、という大見本という作品だ。
 戦争映画だからそれなりに人が死ぬのだが、なんというか、残酷で無残な場面が多くありながら、そういうことも後に残らないようにうまく処理してある感じだ。ちょっとあり得ない生きながらえ方をするものも無いではないが、そうでなければこのカタルシスも無いだろう。ロシヤ人であっても紳士的な人もいるらしく、そうして友情もある。日本人には不思議な感じもするのだけど、歴史的にはその後暗黒の時代を迎えるロシヤ(ソ連)に帰って、自由を満喫したい、と考える人々がいたもののようだ。もっともドイツの捕虜よりましだ、ということに過ぎないのかもしれないが。
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僕の定額料金(サブスクリプション)選択の顛末(その3)

2021-09-09 | 掲示板

 最初のころはお試し期間のようなものがあったのだけど、今はそういうものはないという。でもまあnetflixであれば990円である。いつでも解約できるということなので、それで試してみろ、という意味にもとらえられる。U-nextはお試しがあるが、パック料金になっていて、要らない漫画契約なんかがついている。要らないものが付くのが嫌な性分なので、これはもう選択外である。あと他にも何かあるけどめんどくさいのでそっちはパス。テレビをまた配信して見直すなんてことになると、やっぱり人生短くなるんじゃないか。何しろ映画で人生つぶしそうなんだから。
 で、やってみましたnetflix 。契約は簡単だったけど、何か僕の傾向を調べるとかで三作品選択させた結果の所為か、観たいものを調べるのに偏った感じの作品が出てきたりして時間を大きくロスしたけれど、すぐに80作品ほどがマイリストに積み上がってしまった。ちなみにアマゾンのマイリストは201作品あるようだから、まだまだ余裕だ。これはアマゾンと重複が無いように選択したので、そういうチェックにも時間がかかった。さらにDMMでのリストにあって見つからないものも20近くあるようだが、それなりに古かったり、逆にもう少し待てばリスト化しそうなのもあるので、現実にこれでほとんど見られそうにないというのは2~3作品といったところではなかろうか。
 ということでやっと結論なんだけど、DMMとの契約は解消することにした。現実的にほとんど必要がないことが分かったわけだし。実をいうと、いったんリストもあるし休止するという選択もあるなと思って実際に休止にしてみたんだけど、そうすると、それを思いとどまらせるようにいろいろとデメリットや続けるメリットなどを提示してくるのである。企業努力としては当たり前かもしれないが、非常にうざい。さらにいったん休止にしたせいで、今度は解約ページに飛ばないシステムになっている。何度か試みたがうまくいかない。なんといったん休止を取りやめたうえで、さらに解約手続きをしなければならないことが分かった。これもめんどくさい。そんなに面倒なら「辞めよう」というのが結論に至った一番の理由だ。長年の愛着もあったし、マニアックだけど見られなくなりそうな作品もあるわけだし、もう少し併用して利用しようかと本音では考えていたが、僕はすぐイライラする性格なので、そうさせられる方が嫌だったので辞めたのである。
 ということで、顛末が長くなったので、分けて報告することになりました。お読みくださった方は、ありがとうございました。今はやっぱり画質を少し上げた契約にするべきかな、などと悩みだしてます(結論としては素直に画質をあげる契約にした。それでも1500円弱だったんじゃなかろうか)。こういう商売は、NETの方が一枚上手だね。でもまあ、改めて快適になったもんだよ。そういうことを鑑みると、まちのビデオ屋さん大丈夫なんだろうか? ▲(了)
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愛に破綻した人の強さ   愛がなんだ

2021-09-08 | 映画

愛がなんだ/今泉力哉監督

 会社勤めの山田さんは、出版社勤務のマモル君に一目ぼれしてしまい、彼からの電話が来ると、いそいそと出かけ、一緒に飲んだり、かいがいしく世話をする。そうしていつの間にかセックスもしてしまう仲になる。大人なんだし、告白から始まらない恋や愛だってふつうにあるもんだよなあ、みたいな感じに思っていたが、マモル君はふつうに別にあこがれている年上の女性がいて、その女性との絡みの場面にも山田さんを平気で呼んだりする。また別にそのすみれさんは山田さんを誘い、まもる君が来てないと山田さんがまもる君を呼んでやったりするのだ。
 山田さんは、まもる君から呼ばれたらどんな対応でもしたいと願い、勤めていた会社を辞め、転職することにするが、それでも不自由な環境だとわかると、次々に仕事の方をやめてしまう。仕方がないので、比較的暇で融通が利きそうな、スーパー銭湯のようなところで働くことになる。それでもまもる君は態度をはっきりするどころか、ますます都合よく山田さんを使うだけの行動しかとらない。好きなのはすみれさんだとはわかっている。それでもこうして会うことができる環境を選択したということのようだ。
 一方で友達の葉子ちゃんには、後輩の付きまとい君がいる。葉子は中原をただの使いッ走りにしか考えておらず、買い物を頼むだけでなく、何でも屋のように本人が嫌がることでも引き受けさせる。しかし中原君は、そのようにして葉子さんに仕えていることに自分の愛の確認をしている様子だ。ある意味で山田さんと同じような立場のはずなのだが、それぞれの関係性において、だんだんとその許容であるとか考え方であるものが変調をきたしていくようになる。時折感情は爆発し、そうしてまた歯車が妙にかみ合うようにもなる。ふらふらと不安定な恋愛感情が彷徨うような物語である。
 つまるところ僕には、本当の意味での山田さんの行動は分からない。自分が可愛いだけなのかな、という気もするし、恐ろしく臆病なだけかもしれない、とも思う。作中、この山田さんに対して葉子さんは腹を立てるし、中原君に対してすみれさんが腹を立てる。むしろ僕はこの二人に共感を覚える。こういう煮え切らないやつは、溝にでも落ちて怪我をすればいいと思う。誰のせいでもなく自分が痛い目にあったらいいのである。おそらくだが、これを観た人には僕の気持ちのわかる人が大半だろう。そうだけど山田さんっぽいことをしてしまってるな、という女子の共感が少しあるのかもしれないな、というような映画かもしれない。特に後半の山田さんの最大の危機の切り抜け方(会話)を聞いて、僕は救いようのない馬鹿だなこいつは、と思ったが、自分を守る防衛本能としては、素晴らしいのかもしれない。こういう女とは絶対に出会いたくない(もう無いだろうけど)と真剣に思うものである。
 でもまあ不思議な余韻はあるし、みんないろんな感情の中で人と交わって生きてるんだな、ということなのかもしれない。希望の光もなんとなくあるし、これでいいのであろう。
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僕の定額料金(サブスクリプション)選択の顛末(その2)

2021-09-07 | 掲示板

 いわゆるコロナ禍になって、定額制の動画配信サイトの需要がさらに高まっている、というニュースは知っていた。そういう配信によるドラマのブームなどもあるという。また自宅でそのまま映画なども選択できるうえに、以前と比べても通信速度が格段に速くなっており、画質の向上も著しいという。まあ、そういうことは知ってもいたし、実際に僕はアマゾンプライムの会員で、ときどきアマゾンで配信映画なんかも観ていた。これはほとんど以前のまちのビデオ屋の代わりになっているもので、DMMの配達の合間とか、結局ダブルパックになると、ひと月の制約期間内の期日を少し余らせて終了するのが普通になった。アマゾンのプライム見放題で選択できる映画であっても、それなりにタイムリーだとか興味の持てるものも増えてきており、これはこれで充実してきたのである。
 で、問題はnetflixなのだ。いや別にU―NEXTでもいいんだけど、これがまた、観られる映画の保有数がそれなりありそうだということがわかってきた。先に書いたようにDMMは機動性に乏しいところがある上に、観たいリストを提示しているにもかかわらず、その番号の早いものは見過ごされて、借りられやすい(不人気ともいえる)中盤以降のリストの作品が選ばれて送られて来ることが常だった。一般のビデオ屋だと準新作程度の新しさにもかかわらず、ちょっとくらい人気作品だと(逆に品薄すぎる作品もだったけど)半年以上順番を待たされる作品なんかがある。もっともリストが8枚区切りで全部見ようと思っても数年はかかるほどには書き込んでいたので、次の作品でも黙ってみてろよ、と言われている風ではあった。そんなにひがんではいないが、観たい順位が1番なのに半年以上って、やっぱりなんだかおかしいとは思いませんか? ▲つづく
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地下活動でやってほしい   嗤う分身

2021-09-06 | 映画

嗤う分身/リチャード・アイオアディ監督

 ドストエフスキーの小説を原作にしているらしい。まあ、原案に用いて、現代か未来か分からないが、舞台を創作の世界観に持って行ったものだろう。
 がらがらの電車に座っていると、そこは自分の席だから立てと命じられるなど、何か不条理な状態に置かれている男がいる。身分証を無くすと、よく見知っている警備員から覚えられておらず、会社にも簡単に入ることすらできない。上司からも認められず、淡い恋心を抱いているコピー係の女性にもうまく話しかけることができない。実はこの女性の向かいのビルに住んでおり、夜な夜な望遠鏡で覗き見もしている。
 そういう生活の中、会社に自分と瓜二つというか、実際名前が違うだけで、自分の分身が現れる。彼は、自分と真反対に要領がよく、上司にも気に入られ、女性にもモテてしまう。そうしてまるで、自分を窮地に陥れるようなことばかりするのだった。
 不条理な世界の中で、作り物の物語は進行していく。現代のアメリカではないし、大佐といわれる支配者がいるようだが、そういう世界設定自体が作り物であるのは明確である。まるで悪夢のようだけれど、その中で彼らは生きている。それは間違いのないことらしいが、実際に起こることは観念的な不条理ばかりで、本当にリアルなのかどうかはよく分からない。ただし不条理に囲まれて窮地に陥った男は、どんどんどんどん追い込まれていく。彼の選択するやり方は、どうあるべきなのか。それは観ている側としては、かなり明確になるのである。しかしながらその選択をするには、かなりリスクがあるのだった。
 例によって、またつまらないものを観たなあ、という映画である。どうしてこうもまあ、こういう選択ばかりしてしまうのか、自分に困ってしまう。何か面白そうな雰囲気を持っていて、すっかり騙されてしまった。一昔前のアングラ劇団が好んでやるような内容で、自己本位的で、何か変わったものを変わったようにやっている役者たちの映画という感じだろうか。こういうのが好きな人もいるんだろうけど、そういうのは地下で仲間を集めてやって欲しいという気もする。少なくとも日本にいる善良な僕まで巻き込まないで欲しい。
 ということで、お盆は長雨にも悩まされ、こもっていてもこのような苦痛を加えられることになった。こういうのは、避けがたい災難の一種なのかもしれない。
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僕の定額料金(サブスクリプション)選択の顛末(その1)

2021-09-05 | 掲示板

 僕は長年DMMってところから、月額でDVDとかブルーレイを借りて映画を観ていた。はっきり何年前からそうしていたのか忘れてしまったけど、二十年近くにはなるんじゃないだろうか。毎月8枚借りる最低限の契約だったけど、返却してまた送られてくるまで6日以上かかるので(二日であちらについて二日あちらで眠ってて、そうして二日かかってこちらにつくというイメージかな)、二枚を二セット借りる形式にしていた(そうしないと、送られてきて二枚を5日以上かかってみると、ひと月では8枚観るのが無理だった。以前はシングルパックの契約だったので、いつも8枚観ることが時間的にできず、繰越枚数がかさんでいった)。これも長年不満に思っていて、何度かもう少し効率いい作業ができないか問い合わせたことがあるが、改善はみられることは無く、むしろ以前より一日遅くなっているような気がする。
 見終わって送られてくるまでタイムラグがあるので、以前はその間を埋めるように、マイホームタウンのレンタル店からもDVDなどを借りてみていた。そういう全体を俯瞰することで、観たいものをそれなりに網羅しながら観ていたという感じだろうか。でもまあ生活の総てがレンタルビデオをみるためにあるわけではない。ダブルパックで四枚手元に映画がある状態になると、地元のレンタルビデオからは足が遠のくようになった。そうして映画だけでないものも、たまにだけどテレビで観ることもある。何しろ録画している番組も週に40時間近くある(今はオリンピックの影響で、そんなに撮り貯めてない)。家にいると本当に忙しいなあ、という感じなのである(バカである)。▲つづく
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気の合わない二人が打ち解けるには   セルフィッシュ・サマー ホントの自分に向き合う旅

2021-09-04 | 映画

セルフィッシュ・サマー ホントの自分に向き合う旅/デビット・ゴードン・グリーン監督

 森林火災が起こって広範囲の森が失われてしまった地区の道路の、センターラインを引く仕事をしている二人の男の会話劇。請負業者の男は、妻の弟と一緒に働いている。最初はその独身の弟の週末の楽しみや愚痴を聞いている立場だったが、帰って来てみると、散々の週末だった様子で、しかも弟が預かり持って帰ってきた妻からの手紙の内容も、散々なものであったのだった。
 他にも謎のトラックのおやじが通りがかったり(酒をめぐんでくれる)、家を火災で失った女性も出てくる。しかしながら基本的には二人の男が延々といろんなことを話すだけの内容である。舞台なんかで十分な内容とも言え、なんで映画なんかにしたんだろうって感じもする。
 人里離れた場所で仕事をして、テントを張って寝る。ある意味ストイックで、悪くないリズムの生活を送れているはずなのだが、妻の弟と仕事をする中で、微妙に歯車がかみ合わなくなっている状態なのかもしれない。何しろ義弟は若く、性的にギラギラしていて、こういう生活に耐えられないタイプなのである。静かに仕事をしたい男には、平穏でいられるはずがないのである。
 つまらない映画を観るのは慣れているが、またしてもやってしまったな、という感じかもしれない。しかしながら芸術的に気取っていてつまらない訳ではないので、観ていること自体が呆然とするようなつまらなさではない。そうしていつかは面白くなりそうな予感すら与えられる内容ではある。ちょっとしたカタルシスも無い訳ではないし。
 そうではあるが、暇つぶしにどうぞ、くらいにしかいうことはできない。これを観たから人生に彩が加わるような類のものではない。むしろこちらの神経をとがらせて、何かを受信しない限り、何かを悟ることもできないだろう。それは映画の役割なのかどうか、それとももともと自分の持っている能力のおかげなのか、という感じなんだろうか……。
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残酷江戸社会「性からよむ江戸時代」2

2021-09-03 | 読書

 先に「性からよむ江戸時代(沢山美果子著)」の感想は書いたのだが、長くなったのでちょっと端折っている。その原因は小林一茶が面白すぎたからで、他人に読まれることを気にしてなかったせいもあるだろうが、日記に克明に自分らの性交の回数などを書くからである。まあ、そういう人は他にもいるのかもしれないが、例えば記号で〇×とか、「正」の字で回数あらわしたりとか、自分なりにわかるように記している可能性もある。
 そのうえで、やはり著名人というのもある。著名人の残したものは、多くの場合残された家族がそれなりに管理するだろうから、却って表に出ない可能性もある。それが売れるとなれば別だが、そういうものを知られたくないと思うのが人情だろう。しかしながら一茶は、著名でありながら歴史にも名前が残っている。そういう人間だからこそ、そういう行為を見た(読んだ)ものに、一種の感慨を抱かせるのだろうと思う。そうしてさらに江戸の時代の記録として、その文化や風俗まで漏れ伝わってくるものがある。なんとも素晴らしいのではないか。
 さてそういうことなのだが、さらに興味深かったのは、幕府や藩というものが、人々の性の管理をやたらしたがっているような印象も受けた。もちろん年貢を納める人が多い方が、長い目で見ても藩などの財政は潤う。侍などを従える維持費も大変だろうし、人々が暮らしているもとに、子供をどう生ませるか、育てさせるか、ということにも、気を配っていた可能性が高い。
 そうしてその生む性である女に関して、いろいろと制約をかけていたということが言えるのではないか。また男の側のあらがえない欲望の問題もある(女にもあるはずだが、売れる側の性からすると金を払ってまでする必要がない。まあそれ以外にいろいろあるはずだが、今はとても語り切れない)。そうすると商売をする側の性を管理して、全体的な統制をとろうとしているのかもしれない。どのみち完全な管理などはできないが、自由にすると、統制が取れないどころか、無秩序に増えすぎたりすることを懸念してでもいるかのようだ。
 さらに元々は武士などの養生訓だったものが、家などを大切にする秩序が広がるにつれ、商家や農民などにも養生訓が広がっていく。ただしその視点はまたしても男性的で、あくまで己の快楽としての性を秩序だって制限することで、健康で長寿を得ようとする考え方をする。相手方である女性の健康などはみじんも考えていない。むしろ夫には従順にし、求められるままにせよと、言っているようなものである。それがひいては家を安定させるということなのかもしれない。
 そうしていながら、いわゆる快楽の性と子供を必要をする性交を分けているきらいがあって、売春をする側の女については、あたかも子供が生まれないかのような無頓着ぶりである。そんなことはあり得なかったわけで、花街を取り巻くように医者が住んでおり、また産婆なども頻繁に出入りしていた様子である。そうして生まれた子供が売られるように奴隷のような労働力になり、そうして女であればまた花街で仕事をせざるを得ないのである。まさに人間地獄図である。
 江戸の階級社会の実像は、そのような人の運命を翻弄する犠牲の上に成り立った文化だったのではないだろうか。
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ゆるくて適度にシュールな群像劇   アスファルト

2021-09-02 | 映画

アスファルト/サミュエル・ベンシェトリ監督

 フランスにある団地での出来事を群像劇的に表している。それぞれ関連があるようでいて、そうでもない緩さがある。でもまあ、普通は低所得者向けの団地のありようがある中で、ちょっと変わった人々が、ちょっと変わった体験をするということなのかもしれない。
 団地のエレベータが壊れたため、住人組合でお金を出し合って新たなエレベータを設置することになる。しかし二階にするんでいる男はお金を出さない条件として、絶対にエレベータを使わないと約束させられる。そうしたら事故で足を怪我して車椅子の生活になってしまう。住人に見つからないようにエレベータを使用できるのは深夜のみ。そうして外出すると夜勤の休み時間に煙草を吸っている妙齢の女性と出会うのだった。
 鍵っ子の高校生(美少年)の部屋の前に、売れなくなった女優が越してくる。彼女はエレベータのドアの扱いが下手だったり、鍵を部屋の中に入れたまま外出したりする。その都度彼女を何らかの方法で助けるが、お礼すら言われない。しかし機会があって、彼女の過去の映像を一緒に見て、本当に女優だったことと、過去の映像の彼女がなかなか可愛いことで興味が深まるのだった。
 NASAの何らかの不調で、宇宙からの帰還の計算が狂ったのか、フランスの団地の屋上に着陸してしまった宇宙飛行士が、非公式のまま団地のおばあさんの部屋に居候することになる。そうしておばあさんと言葉が通じないまでも交流が生まれていくのだった。
 イザベル・ユペールが出演していることで、日本でも公開されることになったのだろう。それ以外では、特段派手なこともないし、製作費のかかった作品とも思えず、敬遠される映画のようにも思える(日本の配給会社的に)。しかしながらそのおかげで、この不思議な感覚の映画が日本でも観られるようになったわけで、良かったといえばよかったのかもしれない。実のところその不思議さとフランスらしさが伝わってきて、さすがに愛の国だな、という感じだろうか。そして適度にいい加減である。少なくともアメリカのNASAが、こんなことするはずないじゃないか。
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軽んじられる女の性の深刻さ   性からよむ江戸時代

2021-09-01 | 読書

性からよむ江戸時代/澤山美果子著(岩波新書)

 副題に「生活の現場から」とある。江戸時代に残された記録、事に個人の日記などを中心に、そこに記された性の記録を読み解き江戸の人々の暮らしぶりを性を通して考える内容になっている。
 まず最初に紹介される小林一茶の性の記録が凄まじい。小林一茶は俳句で著名な人であるが、たくさんの句作があるのはもちろんだが、生活の細かいことを日記として書き残した。特に妻菊との性交の時期と回数を克明に記録した。もともと信濃の出身であるが、15の時に江戸に奉公に出され、そこで俳諧を覚え、その後いわば俳句の先生となりそれで生計を立てられるようになる。さまざまな事情で故郷に土地を手に入れ、帰ることができるようになって、52歳になってはじめて、娘くらい年の離れた28歳の菊を嫁にもらうことになる。
 それで喜んで性交ばかりやっていたのか、というとそればかりではなく、もちろん家督を継がせるために子供を欲しがったのが第一ではないか、とも考えられる。もっとも無理に性交を強要したような向きもあるし、売春婦(夜鷹などか)を買って、性病を妻にうつしたりもしている。当時の倫理観なので簡単には言えないが、まあちょっととんでもない人である。子供は四人生まれるには生まれるが、すべて死産や幼くして失っている。結局妻の菊も、産後の肥立ちが悪かったのか、37歳で死んでしまう。一茶からうつされた梅毒が原因ではないか、ともいわれている。最初のころは一日に5回など複数回が多く、月経を挟んで性交が可能になると、コンスタンスに回数を重ねていく、という感じである。人のセックスの回数を見たからと言って不謹慎なのかもしれないが、やはりこういう著名人が克明にこのような記録を残してくれたからこそわかることであって(見栄を張って嘘を書いてない限り)、本当に貴重な資料だと思われる。
 もちろんこれは一茶の性生活ばかりを紹介してあるわけではない。江戸時代の遊女の境遇や、出自などの記録から、どのような人から、女の人たちが、いわば売られてきたのか、ということも分かる(ほとんどは貧しい家の娘や妻である)。幕府や藩の管理下に置いて遊郭はあったわけだが、実際には様々な場所で春を売る女はたくさんいた。夜鷹のように一人で夜に立つような場合もあるが、それなりに組織立って数人で置屋のような商売をしているところは、ごまんとあったようだ。そうすると遊郭の側からは、商売の邪魔者として不満が出る。なのでそういうところを摘発して、遊郭の遊女に移し替えて商売をさせるのである。勝手に売春するのは許さないが、幕府の管轄で年貢のようなものをしっかり納めさせる、ということをしていたのである。ひどいものである。またそういう境遇に陥った女は、望まぬ妊娠をすると必死に流産しようとするが、しかし結局それなりに子供は生まれる。そうするとても育てることなんてできないので捨て子になって、それが女の子なら里子としてよそで育てられて、器量がよかったりするとまた遊郭に売られたりする。ひどい親は、子供のころには育てるのが大変なのですぐに里子に出し、年頃になるともらい受けに行ってそのまま遊郭に売ってしまう。里親の中にはそれを食い止めようと親に返さない努力をするが、法的に親の権限が強いらしく、結局親に取られて売られる娘がいたようだ。日本残酷物語である。今の法律もそんなものが残っているので、すぐに改正して親元を離れた子供の親権は、元の親に属さないようにすべきであろう(特に売られるからということではないが、里親こそ本当の親だろう)。
 江戸時代の性の考え方は、家というものを中心に人間の生活が成り立ち、そのうえでしあわせがあるのだという倫理観があり、それは武士を中心としたものというよりも、民衆や農民に至るまで、たいへんに重要なことと考えられるようになっていた。そのために女というのは子供を産む性として、そうして分け隔てが難しい男の性の処理の対象としての生き方以外にはなかった、といっていいものだった。もちろん自由恋愛をして勝手に結婚を考えずに性交を交わす者たちもたくさんいたようで、そういうものを戒めて、正当な倫理としての婚姻を含め、家制度を構築していったことが見て取れる。そうしてそういう考え方は、明治の時代になっても多かれ少なかれ受け継がれていくのである。
 ものの本には江戸時代は現代と比べても性的におおらかな時代である、とされるものは多い。そういう面も絶対にないとは言えないが、階級もあり生きていくのにより困難な時代であることは間違いなく、そうして女の性というものは、非常に軽んじられていたことは間違いなかろう。ほんのちょっと前の時代に生まれた女という姓は、そう簡単に自分の自由なしあわせを手に入れることは困難だった。そうしてそれはごく当たり前のことだった。
 残酷な事実かもしれないが、読み解く面白さということでは、いい本ではなかろうか。
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