カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

頭が悪いからこその生きる道

2020-02-18 | 境界線

 もともとひどく不器用である。手先で何かをするというようなことを、そもそもやらないし、苦手意識があるからだろう、やろうという気持ちが起きない。やる前から何か、うまくいかないような予感がする。実際にあまりうまくいったという記憶も薄い。
 手先が不器用なのは、頭が悪いせいである。それは明確に理由としてははっきりしている。脳の機能の第一は、体を動かすためだからである。考える力や記憶力などから、頭の良しあしを語る向きは多いとは思われるが、それはある種の訓練の方向の違いのようなものであって、もともとの頭の良さとは少し関係のないことかもしれない。それらの頭の良さは、後天的なもののようであるのに対して、手先の器用さというのは、ある程度先天的な出発点がありそうだからである。もちろん、後天的に伸びしろはありそうだが、そういう部分も、脳の機能としての伸びしろのためだろう。そういうところは、考える力などと、何ら変わりのないものであろう。
 しかしながら、この不器用さのおかげなのか、失敗しながら時間をかけてやることに対して、じわじわと喜びが芽生えることがあるのも確かである。器用な人がなんでもなくやり遂げられることが、僕にはひどく困難である。失敗もするし時間もかかる。まったく嫌になって放り出すということも無いではないが、しかしやってみると、どうこうするというような試行錯誤ばかりの話になる。簡単なことが、簡単にすまないのだから、勝手に複雑化してしまう。そういうところが、なんだか段々と面白く感じられることにつながっていったり、ある種の達成の喜びにもなったりするのではないかと考えられる。要するにのってくるようになると、楽しくなるのかもしれない。
 まあ、始める前から楽しい予感など無いのだから、苦痛点からの転換が必要なことは難点かもしれない。それなりに時間的にそれらに割ける余裕が無ければ、不器用には生きる道は無いのかもしれない。時間的余裕と延長戦というのは、楽しむには必要な要素なのかもしれない。
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