カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

自然死より死刑をやりたかったのではないか

2018-08-03 | 時事

 先にオウム真理教関係者の死刑がパタパタと報じられた。僕も出張の朝飛行場のニュースで見た。それに伴ってやや懐かしいジャーナリストやコメンテーターが何人か出るようになった。そうしてボチボチこれらに関する言説もいくつか目にした。驚いたことにこのような死刑の執行によって、オウム事件を清算してはならない、というような論調がやや強くなったりした。どういう意味なのかは僕には分らないが、そんな不安が本当にあるのだろうか。また、すこし遠巻きだが、オウムの別団体となったアレフの恐怖をあおるようなものもあった。これについては、腰が引けているというかさらによく分からない。分かる人がいるなら教えて欲しい。散骨問題、さらなる神格化問題なども聞いた。これもなんか引き気味の感じ。たぶん報じている方も、本気では無いのだろう。
 そういう中、作家の村上春樹が毎日新聞に寄稿した(7月29日)。そういえば「アンダーグラウンド」という著書もあることだし(これはカポーティを意識してルポしたんだと思われる。おそらく誰かがそのことは論じるだろう。いや、もうあるだろうな、たぶん)、何かを言いたいというのはあるのかもしれない。それにしてもなんで毎日新聞なんだろう。反原発だからか?(また、勝手に寄稿したとも考えにくいが。依頼があってのことなのだろうか。そういう背景こそ記事としては大切な気がする) 
 まあ、それはいいのだが、内容としては公正な裁判がなされて死刑判決がでて、そのかかわりのある家族のその時の様子や印象が改めて語られていた。そうして刑の執行がなされて、それで良かったのか、というような思いが残ったという事だろうか。これだけ詳しく見てきた人がそんなことを思うというのは、思うのは勝手なことだけれど、結局意味とは何だろうかという事も思う。しかし事実として、何か急ぐように刑が執行されたような事があったのか。
 多くの人が知っている通り、オウム事件は、早い幕引きが待望された事件でもある。何しろ裁判は時間がかかるらしいし、起訴された案件の数も凄まじく多い。しかし行われた事実はおおむね明らかにされていたし、事件関係者で何か秘密を隠し持つ人も見当たらなかった。麻原彰晃に忠実な部下たちも、裁判では真摯に正直に答えたとされる。いやむしろやっと洗脳が解け、反省の弁も多く語られた。当の麻原は、演技とも取れる奇弁のようなことも言ったが、特にそれが問題とも思われなかった。もはや、自己弁護以外に、彼の行動は無かったのだろう。そうして実際多くの審理を打ち切っても、早く判決を出して刑の執行をさせるという家族の思いや世論があったことは記憶に新しい。それでも時間がかかったというのが実際のこの出来事の全容であろう。ところが、十分予想されたしかるべき時期にこのように死刑の執行になると、そういう反応になるのか。でもまあ、死刑の執行というのは、だいたいにおいてこのような唐突感なのかもしれない。それでいいのかどうかの議論は、今のところ聞いたことは無いが。
 また村上は、本来は死刑には反対する立場(冤罪などの問題もあるし)であるが、この事件の家族のことを考えると、それは言えない、と書く。寄稿の本来の意味はそこかもしれないな、となんとなく思う。死刑廃止論者であっても、(多くの思いの前に)これは仕方が無かったとはいえ、しかし死刑にしない方が、まだ事件のことが深く考えられるし、良かったかもしれない。しかしやっぱりあれだけのことだし、僕には言えない…、というスタイルなのだろうか。それは、誰に向けてのメッセージなのだろう。
 こういうのを読むと、やはり死刑廃止論者なら、言えないでは無く言うべきだろうと思う。こういう事件だからこそ、死刑廃止の論点にならないか。また、このような事件でなくとも、家族の前で死刑廃止論が言えないのであれば、それは死刑廃止論として弱いのではないか。また当然だが、被害者家族にあっても死刑廃止論者は居る筈である。だとすれば、それは単なる家族への配慮問題なのか。実際問題として死刑がある日本において、誰かが死刑廃止論を言うことで、法律が変わるのか。もちろん変わる可能性があるとして、しかし世論の大勢だから、前近代的な死刑が存続しているのか。そもそも世界の趨勢が死刑廃止の流れだとして、日本がそれを取る必要が本当にあるのか。
 僕自身は、日本という文化圏だからこそ死刑というものがあるのだと思う。冤罪で死刑はイカンと思うが、オウムの場合は当てはまらない議論だろう。死刑が残酷だからダメだというのはよく分からない。無期懲役の方が残酷にも思えるし。しかし死刑を執行する立場の人たちのためには、何か方法は無いかとは思う。いっそのこと募集してさせてもいいと思うが、好きでする人がいてもそれはそれで問題があるが。
 オウムに戻ると、今さらながら若かった人達が、今や高齢になりかかり死刑となった。これを二重の刑罰と思うか、軽いと思うか重いと思うか。何度でもいうが、どう思うというのが基本的には重要で、それは何故なのかがもっと重要だ。オウムに関してある程度冷めた感じの世論を思うのだが、その距離感こそが、何か時代の疲れのようなもののようにも思う。今でも反社会的な新興宗教などに、家族を奪われる人たちはいるのだろう。また、洗脳セミナーだって存在しているはずだ。もうそのようなものには染まるはずがないという人が増えると、そのような脅威が、またひょっこり顔を出すことになるのではないだろうか。
コメント
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