カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

頭はよくないがまともである   スキマスキ

2018-08-16 | 映画

スキマスキ/吉田浩太監督

 単なるエロ映画なんだが、アマゾンプライムビデオをぱらぱら観てたら、つい最後まで観てしまった。隣のアパートのカーテンの隙間から見える女性の姿を覗く日常を送っている大学生。どうしても気になって勉強も手につかない。彼は夜間の学生だったが、ひょんなことから昼間のいつも覗いていた女と知り合うことになる。何度も一緒に飲みに行き、良い感じに付き合う感じになっていく。ところがこの女は、実は逆にこの青年を覗いて観察するのを、勉強と興味の両方で以前から行っていたのだった。
 異常というのではないが、何か頭がおかしいような不思議な感じのある女の子に振り回される男子、という図式にもなっていて、中二病的な妄想世界に近いかもしれない。覗いている色っぽい女にそのまま好かれたら最高ではないかという事なんだろう。物語はそこまで複雑化はしないけれど、ちょっとした恋愛の綾のようなものはある。最終的に純粋さが生きるという中二病に終わる。まあ、それしか無いようにも思うが、普通はそうならないのでファンタジーである。隙間問題も一応解決するようだし。
 女性が恋愛の綾をどのように考えているのかはよく知らない。しかしながら馬鹿な男のほとんどは、このような覗きにあるような性的な期待でもって、女の子に惹かれていることは間違いなかろう。もちろんそれが分かっていて男を手玉に取るのがプロなんであろうけれど、そういうことが分かりやすいと言えば非常に分かりやすく描かれている。純粋に好きだからいいじゃん、という事であるが、これが純粋かどうかは分からない問題である。かといって純粋が崇高かと言えばそんなこともあるまい。どうであろうと恋は恋。そんなにエロでもないのだけど、観てしまうのも人間の性のようなものなのだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ピカピカに磨かれた靴

2018-08-15 | 散歩

 たぶん靴磨きをしてもらったことは無いと思う。理由はおそらくと思うが、戦後の日本の闇市などで、貧しい子供たちが靴磨きをして生活を支えた、というような話や映像を見た所為だろうと思う。さらに靴を磨いてもらうという行為自体に、なんとなく貴族的なものを感じさせられる、というのがあるかもしれない。やったこともないし、そういう立場に自分がいることに、気恥ずかしさを感じるような気もする。
 ところが靴磨きというのは、気分としてはちょっと違うものがあるようなのだ。靴磨きをしてもらうという文化はほとんど男性のものだし、そうして男性なりのオシャレやダンディズムとも関係があるらしい。靴を磨いてもらえる人間になるために靴を磨いてもらう、というような何やら前後がよく分からない理屈も聞いたことがあるし、靴を大切にすることは、男のおしゃれの出発点であり基本である、ということも聞いた。なるほどと思ったことは無いが、不思議ながらそういうものかとは思う。靴だって高いものがあるから、まあ、大事に履いた方がいいという理屈なら僕にもわかるが、そういうものを含んでもいるんだろうが、なかなか難しいものである。
 僕がそのような人達がいることを特に意識することは普段無いが、しかし時に考えないことは無い。それというのも、靴磨きするような人が仕事相手だったりすると、やはり人を見る視点の中に、靴磨きの思想めいたものが、現れるのではないか。そうしてその考えから類推されて、僕のような人間が酷い目に会うことがあるんじゃないか。
 まあ、ひどい目に会わされている可能性は無いではないが、まず相手にされることも無いだろう。僕自身も靴磨き愛好家の人を特に邪険に扱ったことは無い訳だし、靴を磨いているかどうかなんて、相手が言わない限り、まず僕に分かるはずがない。ピカピカの靴を履いているかどうかを覚えていることも、かなり難しいだろう。相手が下駄か何か履いていたら、覚えているかもしれないのだが…。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

商売は売れてナンボでんな   海賊とよばれた男

2018-08-14 | 映画

海賊とよばれた男/山崎貴監督

 原作は百田尚樹のベストセラー小説。出光興産の創業者の伝記的な物語らしい。話題になったのはもちろん知っていたし、息子が小説を読んでいたようだ。僕は未読。
 時代がまだ石炭中心だった頃に、石油の将来性を見越して販売を手掛ける石油商店の奮闘記である。もちろん国内の別の販売業者や、戦争や、外国の巨大石油メジャーの妨害を受けながら、さまざまなギリギリ商法で乗り切っていくという話である。
 なるほど、観ながら感じたことは、確かに多少国粋主義的な雰囲気がある事かもしれない。こんなに凄い日本人がいて、苦しみながらも戦いに勝っていくという事と、悲恋の物語が絡んでいる。もっとも悲恋の方は、片側だけのような気もするが。
 正直にいうと、今一つ盛り上がらない感じもした。スゴイは凄いかもしれないが、なんとなくヤクザ的な決断の凄さであって、カタギっぽい努力にはあまり見えない。もちろんカタギにだって腕も努力も必要で、ヤクザだから出来るという問題では無い。そういうバランスがなんとなくわるい感じで、さらに奥さんに逃げられてしまう(ように見える)。それでも頑なに負けないように頑張って会社は相当デカくなっているが、もっとデカい石油メジャーが本気になって、どうしようもなくなって、ほとんど特攻隊になっていく。戦争で生き残った命は、このような使われ方でいいのだろうか?
 もっとももっと背景が細やかに描かれていたのかもしれない。映画の尺の問題もあるので説明は最小限という事か。英国の身勝手さにおいては、ある意味でかの国にも後ろめたさのようなものがあったのかもしれない。読み勝ったという事なら見事なことである。
 映画の本質とは違うことだが、実際の人物がどんな人だったかには諸説ある。しかしながら、日本人が頑張ったという話は、確かにいろんな人が頑張ったのではある。独裁者をたたえて神格化すると問題があるが、いろいろな偉人が居ていいと思う。そういう人の発掘であれば、もっと積極的に顕彰映画がつくられていいのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真実は想像力が覆す

2018-08-13 | Science & nature

 マルクス・ガブリエルというドイツ人の若き哲学者が日本に来て、いろんな人に会っていろんな話をしているというのを見た。彼は、世界は存在しないとか、妙なことを言っている人だというのは分かった。まあ、存在しないという文法なんだろうが。
 分かりにくいものを分かりやすく語っている人だというのは分かって、例えば彼はドイツ人だが、非常に分かりやすい英語を使っている。日本に来た印象として秩序について考えたようで、その中での個人という事について、日本人には分かってもらいたいというのがあるようだった。ドイツ人はそれがあり、日本人は無いという印象をもったのだろう。例えば出会いというものは、待っているものには訪れない。受動的な物事であっても、能動的な行動での上で、いわば奇跡のような偶然があって、生まれるものだ。恋は落ちるというが、動いている人間が落ちていくようなものだという事なんだろう。
 そういうことは分かるし、日本人の生き方において足りないように見えるのも、そうなのかもしれない。そういう意味では、彼は日本人の生きたにも影響を与えうるかもしれない。人気があるのもそういう部分だろう。
 そこまでは良かったのだが、彼は大阪のロボットで有名な石黒浩教授に会いに行く。そこで例の石黒本人に似たロボットも見る。そうしてまだ本当には人間らしくないロボットにいささか安心したものがあったようだ。そこで石黒教授の説明があって、ロボットをいくら人間に似せたところで、ディティールの違いが逆に見えてくるような事があって、むしろ人間としていい加減に作っている抱き枕のようなものに、少しだけ人間のような要素を入れると、人間の方がそれを想像力で補って人間らしく感じるようなことが起こるというようなことを話した。そういう境界というのはあいまいなところがあり、突き詰めて考えてみると、ロボットと人間の境界や、そもそもの人間とは何かというものは、分からなくなっていくのではないかという事を話していた。
 そこでマルクスさんが言ったのは、人間というのはまず最初に明確なものがあって、いつまでもロボットとは交わらないという話をした。まず人間があるというのは譲れない問題であって、その話自体を理解できないようだった。それがドイツ人というものであるという事も言っていた。要するに日本人のようには(他のもの、ロボットなどに)親和性は無いという意味であろうし、そうして個人という厳密さの意味だろう。
 単純に見て哲学者の限界かな、というのが僕の印象だ。石黒教授の考えていることは、人間中心主義にとってはブラックユーモアかもしれないが、自然な人間の感情に過ぎない。思想を越えたものがあるし、真実である。そうして哲学的な命題でもある。その答えとして哲学者は何を考えるかが重要で、自分がいるだけではどうにもならないだろう。もし、もっと人間らしいというようなロボットが目の前に居たら、又はその想像力を彼が持っていたら、答えは違うはずだからだ。もちろん哲学は自分がどう思うだけでも成り立つが、普遍性のある哲学にはならない。その役割は、やはり科学がとってかわったという瞬間なのではないか。やっぱり哲学は既に終わっているな、というのが正直なところである。個人の限界というのは、すでに見えていることのようだ。さらにもう人間自体も終わっているのかもしれなくて、次に来るのは、人間自体が物を考えるだけでない自然と科学の共同的な思想かもしれない。
 それでも何か哲学に期待しているものがあるのかもしれない。人間にはノスタルジーがあるようなもので、そこに真実が無いとしても、期待だけは残るのだろう。哲学が生きているのは、たぶんそんなようなものなのではないか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私は母になっている(実はそれっぽくは無いが)   太宰治の辞書

2018-08-12 | 読書

太宰治の辞書/北村薫著(創元推理文庫)

 円紫さんシリーズという事でずっと紹介してきたが、今回はやっぱり「私」シリーズとすべきかもしれない。結局名前が明かされない「私」が中学生の息子を持つ編集者の中堅として現れる。もう女子大生シリーズですらないし、匿名作家シリーズでもない。前後談を含めた随筆と、恐らく関連のある短編も共におさめられている。
 小説は作品がすべてだ、という言葉もあるのだが、作者がどういう考えをしていたかとか、その生活ぶりなどが作品の内容を深める場合というのはあるように感じる。実際にそういう読み方で、深く内容を知る場合がある。この謎ときはまさにそのような深い読み方の指南書のようなところがある。というか、実際にこのように読んだという、恐らく作家の姿があって、そうしてこしらえられた作品がこの小説の筈なのである。物語の流れのようなものは、小説の構成でなされているのだろうけれど、だからこそ、本を読んだり調べたりしたことは、恐らく事実として描かれているはずだという事が読んでいてわかる。そうしてその一冊だけでは分かりえない、深い読書体験をすることになる。普通はこんな読書はとてもできないのだが、編集者として仕事をしている主人公の私は、公私混同を交えながら、本当に深いところまで謎解きとしての読書にのめり込んでいく。またそこに関わる人々も、みな優秀にその推理の手助けをしてくれるのである。いわゆるそれらし過ぎてうますぎるんじゃないかと思われることが、かえって欠点にさえ見えてしまうような見事さである。
 ちょうどこの本を読んでいる時に、津軽に研修に行っていた。驚くべき符合。いや、そういう風に自分で選んだのだろうか。そうして太宰治の生家を見学して、この小説を思い出していた。金持ちで我がままで自分だけがかわいい太宰は、もの凄く贅沢な環境の中で、恐らく甘えて育ったのかもしれない。これほどの自意識過剰人間が、安易に生まれてくることは無いのではないか。しかしいくら金持ちとはいえ、太宰には11人のきょうだいがいる。そうしていくら立派な家でも、多くの使用人を交えての忙しい日常があったのではないか。6男で10番目の太宰は、そういう中で実はさびしかったのではないか。そんなことを思ったりした。
 付録的についている短編で、円紫さんらしい人が出てくる。おおよそ子供っぽくないところもあるが、名探偵登場である。ずいぶんお得で、しかし今後があるのか分からない、寂しい気持ちのする最新刊ではないか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

活字で無い村上ラジオ

2018-08-11 | 音楽

 村上ラジオを聞いた(8月5日)。初めて声を聴いて感激してしまったし、何よりその語り口と声、内容も素晴らしかった。構成もかなり考えられており、番組として凄いなと思った。こんなにラジオが楽しいというのも珍しい。もっともラジオなんてほとんど聞かないが。
 ラジオ特有の高揚感のある語り口がどうも苦手で(なんでラジオの人達って、ハイテンションの人が多いんでしょうね?)、聞いてて嫌になるのである。しかしながら村上さんの語りは、そこのあたりがちょうどいい感じだったかもしれない。喋りのプロじゃないだろうから、いわゆる上手い訳じゃないんだけど、聞きづらくない程度の高揚感は伝わる。内容も文学的でもあるし、オタクっぽくもある。
 声も意外だったけど、選曲も意外だった。いや、村上春樹のエッセイは読んでいるので、まったく彼の好みは知らない訳では無いんだけど、それにブライアン・ウィルソンのように贔屓の人もかかるんだけど、その選曲が意外なのだ。こんな曲たちは、ちょっと探しても見つかるものでは無い。おそらく影響力があるので再販になる可能性はあるが、今すぐ探しても簡単に手に入るものは少ない。今はどうだか知らないが、恐らく高騰もするだろう。まったく凄いものだ。
 聞いていて最初は気付かなかったけど、恐らくこの構成は通しで作られたものでは無いのではないだろう。テーマを決めて選曲をして、そうしてその曲の資料を再度検証したりして、ラフな原稿のようなものをつくって(というか箱書きでしょうね)、いくつか語ったものを録音して、そうして後でそれを順に曲とを交えて構成し直したのではないか。なんだかドラマチックに思えるのは、そのような組み立ての成果ではないか。
 最初はこの番組は続くものだと思い込んでいたが、とりあえず単発というか、様子を見ている感じだ。おそらく話題にはなっているだろうし、それなりにお金もかかっているのではないか。また番組は作られると信じたいが、課金システムとか会社の事情とかスポンサーのこととかで話し合いがなされているのではないだろうか。村上事務所との兼ね合いもあるだろうし。
 いろいろ言いながら、また新しいのを聞きたい。単純に純粋に聞きたい。音楽の趣味が同じとは言えないが、恐らく多くの人向けに万人向けに選曲がなされていたはずだ。実際の村上さんが好んで聞くようなものは、ちょっと秘密という感じもする。どうせわからんだろう、とも思っておられるのではないか。まあ、ちょっと考えられないくらい音楽には造詣が深い人みたいだし。日本に同じレベルで音楽を知っている人は、15人くらいは居るかもしれないが、それでは番組にはならない。
 この番組でかかった曲で、唯一僕がもっていたのはラモーンズのワンダフル・ワールド。実は諫早のFMのラジオに出演したことがあって、その時に三曲くらい好きな曲をかけてよいと言われた。その中の一曲として同じくラモーンズをかけてもらった。何を話したかとか他に何をかけてもらったのかはよく覚えてないんだけど、ラモーンズをかけたのは嬉しかったので覚えているのである。何と村上さんもこの曲を選んだなんて、単なる偶然でも嬉しいです。でも、棚を探してみたけど見つからなくて、またアマゾンでクリックしてしまった。整理整頓は大事ですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

とうとう就職致しました   朝霧

2018-08-10 | 読書

朝霧/北村薫著(創元推理文庫)

 主人公の私は、大学を卒業し出版社に就職する。そこで文壇の大家のような先生と俳句談義をしたりする。多少衒学のケがあって、凄すぎてどうなんだか。僕にはとても同意できるほど教養が無い。まあ、面白いんだろうけど。また、近所の校長先生までした人が俳句教室で教えるのをやめるという理由にミステリが絡んでいる。
 この話で思い出したのは、ある知人の父親のことだ。同じように娘が雑誌のグラビアだかヌードで出たらしかった。田舎だからものすごく話題になったが、なかなか手に入らなかった。地元の本屋などで買占めがあったらしく、それが他ならぬその父親であるという噂だった。まあ、そういう話は隣町でも聞いたことがあるので、実際にありふれたものなのではなかろうか。もちろん娘を支援して、売り上げに貢献したいとかいう話では無い。なんとなく哀れである。
 二話目はリドル・ストーリーという物語の結末を読者にゆだねるタイプの話で、ある話の結末を推理するというもの。もちろん円紫さんは見事に当てる。しかしながらこのタイプの結末当てについては、答えが違ってもいいと思う。その人の考え方が反映されるので面白い訳で、必ずしも当てることが目的では無かろう。そうではあるが、やはり円紫さんの答えが一番すごい(だから正解)訳だが。
 この話で思い出すのはクイズ・ダービーの「はらたいら」だった。砂漠を旅する男が、いわゆる激しい性衝動を覚えた。しかし砂漠である。仕方ないので連れているラクダとやろうと考える。しかしラクダは激しく抵抗して、させてくれない。そこにバギーに乗った絶世の美女が通りかかる。彼女は親切に、困ったことがあったら何でも言うことを聞くという。男は女に何を頼んだか? これを「はらたいら」は見事に当てた。本当は考えて欲しいが、簡単ではないので種明かしする。暴れるラクダを押さえて欲しいと頼むのである。
 三作目は忠臣蔵を巡る話といっていいかもしれない。それに暗号のような謎解きが絡む。祖父の日記に書かれていた暗号を解こうというのである。もちろん故人なので本人に確かめようが無い。生きていたら日記を読めたか分からないが。さらに当然ながら文学的な遊びがある。まあ普通に考えて簡単では無い。泉岳寺まで行ったりして、なかなか楽しい訳だが、円紫さんにヒントをもらって私は自力で解いてしまう。かなり凄いですね。
 前作の「六の宮の姫君」の続編的な作品になっているらしい。これは読んだはずなのだが、記憶が乏しい。買ってもっているのは間違いないが、本棚で見つけられない。また買うべきかちょっと迷っているところである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コールドヌードル・イン・サマー

2018-08-09 | 

 夏に冷たい麺を食べる習慣は、あまり海外では無いという。冷たい料理は手抜きという印象もあるだろうし、中国などは体に悪いともされている。日本には刺身の文化もあるし、冷たい食材に抵抗があまりないのではないか。さらに湿気が多く、夏は暑い。そういうときに冷たいものがありがたいというのはありそうだ。トコロテンのようなおやつもあるし、宮崎には冷汁という食べ物もある。冷汁とまでいかなくても、冷えたみそ汁での猫まんまなどは、夏に限らずそこまで抵抗は無いのではないか。
 いや、麺の話だ。夏になると熱いラーメンはちょっとな、という気分になる。店先に「冷やし中華あります」と表示が出ると、おおっと身を乗り出したくなるのは確かだ。ざるそばでもいいが、もっと清涼感が冷やし中華にはある。もっともキュウリやトマトが苦手だという意見も聞いたことがあるが、嫌いならのけて食べたらいいのではないか、と思う。もったいないのなら、最初からそう言って作ってもらえるのではないか(料金のことまでは知らんが)。
 村上春樹のエッセイで、夏は冷麦だ、というのがあった。それもハワイに持って行って食べるのだそうだ。僕はそれまで冷麦とはなんだか知らなかった。さらにそんなものをハワイで食べるというのはどういう事だろう。すっかり面喰って素麺にすればいいのに、と思った。しかし乾麺は旅行鞄の中で折れたりする心配はないのか。折れても食べられはするだろうけど。
 素麺である。ソーメンという感じの方がふさわしいか。これを何把も解いてゆでてもらう。今ではそんなことできないから、若いっていいなという感じだろうか。麺つゆには、ネギだの紫蘇だの生姜だのミョウガだの薬味をたっぷり入れる。ソーメンは当然氷と一緒にガラスのボールなどに冷えている。ざるで取ってある場合もあるが、これは、水につけてある方がいいように思う。もちろん麺つゆが薄まるので、時々つゆは足す必要もあるが。
 夏の渓流の小屋などにいくと、テーブルの上で水流がくるくる回るやつがあったが、今もあるんだろうか。轟渓谷とか龍頭泉ならいまだにありそうだと思われるが、どうだろう。たぶん熊本や鹿児島にも残っていると勝手に想像する。あれも楽しいが、まあ、家ならそこまでする必要はない。また竹を切って流すというのも行事であるが、外も暑いし、そこまでしなくても良い。子供が喜ぶからやるんだろうけど。
 ソーメンには確かに高級だとかそうでもないのがあって、このあたりだと有家あたりの寒い時期に作ったものが最高とされる。そういうのにあたっているのかどうかは分からないが、時々非常にコシが強くて素晴らしいものがある。結局味わうようには食わないで、ズルズル熱中した後に思い出すだけのことではある。
 村上のエッセイの後に冷麦を買い求め食べてみたことがあるが、期待したほど感心はしなかった。これなら五島うどんの方がいいかもな。それにやはりソーメンの方がツルツルやるにはいい。遠慮が無くていいのである。まあ、それは文化の問題で、さらに夏という気分の問題なんだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

それは人間の値打ちでは無い   人間の値打ち

2018-08-08 | 映画

人間の値打ち/パオロ・ヴェルズィ監督

 イタリア映画。イタリアと言えば昔は映画の名門国だったが、今はすっかり没落した感がある。まあ、日本にあんまり配給されないだけだろうけど。この映画はイタリアなのに配給されているので、久しぶりに名作なのか? と勝手に思って観たようだ。思惑はだいぶ外れてしまったが…。だいたいどう評価してよいかよく分からない作品で、展開としてはよく出来ているが、人間の倫理観としてこれはどうなのか? という展開が多すぎて、ちょっと物語どころでは無い感じもする。そういうところを掘り下げて考えている訳ではたぶん無くて、そういうサスペンスを作る為の設定に過ぎない気もする。みんなどこかおかしいのだが、それはいったい金の為か愛の為か見栄の為なのか? イタリア人は本当に不思議である。
 いちおうある夜のひき逃げ事件の真相を、それぞれの立場から見ながら解き明かす展開だ。最初に疑わしいと思われている人物のまわりの人に、いろいろと問題が多すぎる。そうしてそれぞれにちっとも共感が持てない。金持ちの夫人のイラつきだけがなんとなくわかるけれど…。それに共感は出来ないまでも、最終的にはなんとなく可哀そうかもしれない。また、邦題の「人間の値打ち」だが、原題が何だか知らないが、そういう趣旨の映画では無い。ほんとにまあ、よくもこんな変な倫理観の人ばかり育ったものである。イタリアのサッカーみたいなものなんだろうか。
 いい人に見えても、一人の人物には別の内面があるというのはある。最初はそういう話なのかとも考えた。しかし考えてみると、そういう部分も薄いのである。金が欲しい人も、愛が欲しい人も、それが叶わないことで、もっと葛藤するのではないか。いや、葛藤してないとは言えないが、そういう解決の仕方というのが、今一つ納得のいかない展開である。みんな悪い人ばかりなのだが、正当化するやり方もまた、どうもいけない。みんな人間の価値として、低い人ばかりだという話なのか? 人とのつながりがあるはずなのに、自己中ばかりだとこういう社会になってしまうという事なんだろうか。イタリア人は家族を大切にするというが、そうしてそれはあながちウソでは無いと僕は思っているが、こういう映画を観ると、たぶんそれは嘘である。だから日本人で良かったという話ではないが、こういう倫理がまかり通ると、やはり社会は不安定になるしかないのではなかろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

同じ大きさに意味がある

2018-08-07 | culture

 外国人が日本にたくさん来るようになって、いわゆる日本的なモノというのが、それなりに売れているらしい。おみやげとしても日本的なモノを買いたいという事もあるんだろう。伝統工芸品のようなものが改めて見直されて、その価値通り売れていくのは、その筋の人には大変に助かる事だろう。イメージとしても、日本の職人芸のようなものが生き残る、ひとつのモデルかもしれない。
 そういうことで、日本の箸が売れるようになったという。日本の箸のほとんどは、特に日本人が使うものは、今やよその国で作られている可能性が高いが、人気があるのは当然そういう事では無く、いわゆる工芸品である。箸ならば複数買っても荷物にもならないだろうし、やはり日本的な感じとして好まれるところなのだろう。
 ところがこれに多少の問題があって、日本には夫婦茶碗とか夫婦でセットになっているお箸とかいうものが結構ある。これに対して、特に西洋系の外国人だと思うが、それなりに抵抗感のある人が多いのだという。厳密にいうと、色合いが柄が違うのはいいのだが、大きさが違うのがダメなようだ。
 もちろん男女の違いがあっていいのである。男用や女用があっていいのだ。好みがありバリエーションがあるのは、まったくかまわない。それぞれ好き好きで選べばいい。問題はセットになっているのに大きさが違って、多くの場合女用の方が小さいというのがいけないらしい。
 それで、最近は大きさが異ならないセットというのが、結構つくられるようになっているようなのだ。今ネットで観てみても、以前と比べると、格段に同じサイズで柄違いのセットが作られているのが分かる。
 まあ確かに、そういうのがイカン訳ですね。気を使うのも文化と言えばそうなんで、今後はサイズが一緒のペアの開発が望ましいようです。職人さんよろしくお願いします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悪いのは巨大な権力や企業だろうか?   汚れたミルク あるセールスマンの告発

2018-08-06 | 映画

汚れたミルク あるセールスマンの告発/ダニス・タノヴィッチ監督

 パキスタンで乳幼児が粉ミルクで死んでいるという告発社会派映画。企業はネスレのようだ。パキスタンの事件だが、インドや英国、フランスが制作国となっている。作中はドイツも舞台になっていた。
 この主人公のセールスマンは、もともと国産の薬のセールスをやっていたが、医者が安い国産の薬を処方したがらない背景があって(患者も外国産を欲しているという理由もある)、成績がなかなか上がらなかった。就職活動をして、より給与の良い外資系(おそらくネスレ)の会社に入ることに成功する。要するに生活のためにもっとお金を稼ぎたいという気持ちが先にあったという事である(まあ、当然だろう)。
 それで最高の粉ミルクを乳幼児に処方すべきだと医者を説得し、良いセールスを記録していく。ところがある活動家から、この粉ミルクを不衛生な水で溶かして飲ませたり、水を多めに薄く作る(要するに粉ミルクが高価な為に節約しようとするらしい)母親が多くいるために、乳幼児がたくさん死んでいるという事を聞かされる。急に正義感が目覚めたという感じになるが、当然会社はつべこべ言わずにもっと粉ミルクを売れ、という事になる。それで活動家(ジャーナリスト)と共に告発に踏み切るが、そのことにより会社側の強大な権力と医者たちの妨害にあって窮地に陥っていく。
 もちろん、子供たちが不衛生な環境や栄養不良のために亡くなっていくことは痛ましいことだ。巨大な国際的な企業が大きな力をもって、国家権力にまで力を及ぼしているらしい背景もいただけない。ジャーナリズムがそういう構造に飛びついて告発したいという思惑も分かる。しかしながら、なんとなく疑問が払拭できないのは、このような左翼的な考え方の人々は、どこか浅はかな感じなのである。告発を手助けする主人公のセールスマンも、終始どこか信用が置けない。実際に大きな失敗をやらかしてしまうことになるのだが…。
 実際にこの映画を観て思うことは、巨大企業がやり玉に挙がって突き上げられるものの、事の根本は貧困である。本当に責任があるのは、そういう事実から目を逸らす我々にあるという事になるのだろう。ジャーナリズムは、そういうことからこそ注視すべきなのではないだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

少年や少女の年齢が高すぎる

2018-08-05 | net & 社会

 先日海外ドキュメンタリーを観ていたら、アフリカの十八歳の少女の日常というのをやっていた。イスラムの戒律を守りながらも不満があり、携帯を操る現代人であり、伝統衣装に身をまとえば身が引き締まるような心情になる。まあ、そういう現代の若者の姿を現すレポートである。しかしまあ今さらながらのことで日本人の僕の偏見に過ぎないが、アフリカの背の高い18歳の女性が、少女というのにはどうにも違和感があった。
 年齢のレンジとしてはおおむね18くらいまでを少女と定義するものはあるようだ。だから間違いという訳では無い。しかしながら日本であっても、事実上高校生くらいになると、ほとんどの人は少女ではなくなるのではないか。少女っぽいことはまだできるかもしれないけど、女生徒女子高生という括りの方が前面に出てきそうである。もう18歳少女でなくてもいいじゃろ、って感じではないか。
 少年の方はどうかというと、関心がぐっと無くなってさらにどうでもよくなる感じか。でもまあ高校生くらいはもう青年という感じだろうし、少年とは区別してやろうよ、って感じになりそうだ。高校球児を野球少年というとかなり違和感あるし、サッカー少年が高校生ってのも変な感じだ。やっぱり中学生から上くらいで、事実上の区切りが見えそうである。もちろん個人差もあって、時々少年は混ざっているだろうけど。
 それにしてもいまだに、「弱冠23歳にして世に認められ(※1)」などと言う表現も散見されるし、「初老を迎えた紳士が静かに話す(※2)」などと言う表現なら、還暦は過ぎたような人を指している場合があるようだ。こういうのは、あえて正確にやってしまうと、すでに現実とのギャップが大きすぎて、その通りであるほうが誤解を生む表現になってしまっているのだろう。
 という事であるならば、少女や少年の年齢は、もっともっと引き下げられていくべきなのではなかろうか。

追伸:※1 弱冠はの弱は二十の意味。弱冠というのは二十歳以外に用いるのは、本来は誤りである。
※2 もともと40歳の異称。現在は60前後を指す場合も増えたが、誤りであることに変わりない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イヌまで殺さなくていいじゃないか   リベリオン―反逆者―

2018-08-04 | 映画

リベリオン―反逆者―/カート・ウィマー監督

 SF近未来ディストピア設定作品。人間の感情を抑制する薬を飲むように強制されている独裁社会の中にあって、主人公はこの薬を飲まない反政府の人々を取り締まる立場の超人である。冷酷な取り締まりで、多くの人を不幸に陥れる象徴的な存在である。ところが誤って自分が飲む薬の容器を壊してしまい、飲まないまま任務にあたっていた。そのまま変わらずに冷酷に捜査にあたっているかに見えていたが、しかし徐々に感情を取り戻していき、自分が飲むべき薬を隠して飲まなくなっていくのだった。
 感情を持たないから反乱しないという発想だと思うが、例え薬を飲まないままでも、十分人々は反乱を起こしそうな情勢である。主人公は強すぎる訳だが、敵の放つ弾が当たらないのだから強いのも当たり前だ。そういう動きや能力を持っている前提なんだが、マトリックスみたいでカッコいい反面、ちょっとシラケる。個人が国家や軍隊より強いのならば、大衆も独裁者も無かろう。自分が君臨して平和な世の中を作ればいいのである。
 まあしかし、こういう雰囲気を楽しむ映画であるから、実はこれはこれでいい作品ともいえる。気楽というか、それなりに楽しめるのも確かだ。特に主人公のクリスチャン・ベールのキャラクターが、もともと禁欲的な雰囲気にあっているし、めちゃめちゃ強くてもクールなままでいいのである。たくさんの苦悩も抱えているはずだが、そういうことも語らずもなんとなく伝わってくる仕組みである。低予算というのも良く分かるが、それならこういうつくりをすればいいというようなお手本にもなっている。そういう背景もあってか、公開中は日本では、ほとんど話題になることも無くすぐに打ち切られたという話であるが、後にじわじわと人気が出た作品と聞いている。地味であっても良いものは良い。アクションは派手だから、本当に地味な作品ではないが、アジア的なストイックさを西洋風に翻訳すると、こんな感じになるという事が、なんとなくわかるのではなかろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自然死より死刑をやりたかったのではないか

2018-08-03 | 時事

 先にオウム真理教関係者の死刑がパタパタと報じられた。僕も出張の朝飛行場のニュースで見た。それに伴ってやや懐かしいジャーナリストやコメンテーターが何人か出るようになった。そうしてボチボチこれらに関する言説もいくつか目にした。驚いたことにこのような死刑の執行によって、オウム事件を清算してはならない、というような論調がやや強くなったりした。どういう意味なのかは僕には分らないが、そんな不安が本当にあるのだろうか。また、すこし遠巻きだが、オウムの別団体となったアレフの恐怖をあおるようなものもあった。これについては、腰が引けているというかさらによく分からない。分かる人がいるなら教えて欲しい。散骨問題、さらなる神格化問題なども聞いた。これもなんか引き気味の感じ。たぶん報じている方も、本気では無いのだろう。
 そういう中、作家の村上春樹が毎日新聞に寄稿した(7月29日)。そういえば「アンダーグラウンド」という著書もあることだし(これはカポーティを意識してルポしたんだと思われる。おそらく誰かがそのことは論じるだろう。いや、もうあるだろうな、たぶん)、何かを言いたいというのはあるのかもしれない。それにしてもなんで毎日新聞なんだろう。反原発だからか?(また、勝手に寄稿したとも考えにくいが。依頼があってのことなのだろうか。そういう背景こそ記事としては大切な気がする) 
 まあ、それはいいのだが、内容としては公正な裁判がなされて死刑判決がでて、そのかかわりのある家族のその時の様子や印象が改めて語られていた。そうして刑の執行がなされて、それで良かったのか、というような思いが残ったという事だろうか。これだけ詳しく見てきた人がそんなことを思うというのは、思うのは勝手なことだけれど、結局意味とは何だろうかという事も思う。しかし事実として、何か急ぐように刑が執行されたような事があったのか。
 多くの人が知っている通り、オウム事件は、早い幕引きが待望された事件でもある。何しろ裁判は時間がかかるらしいし、起訴された案件の数も凄まじく多い。しかし行われた事実はおおむね明らかにされていたし、事件関係者で何か秘密を隠し持つ人も見当たらなかった。麻原彰晃に忠実な部下たちも、裁判では真摯に正直に答えたとされる。いやむしろやっと洗脳が解け、反省の弁も多く語られた。当の麻原は、演技とも取れる奇弁のようなことも言ったが、特にそれが問題とも思われなかった。もはや、自己弁護以外に、彼の行動は無かったのだろう。そうして実際多くの審理を打ち切っても、早く判決を出して刑の執行をさせるという家族の思いや世論があったことは記憶に新しい。それでも時間がかかったというのが実際のこの出来事の全容であろう。ところが、十分予想されたしかるべき時期にこのように死刑の執行になると、そういう反応になるのか。でもまあ、死刑の執行というのは、だいたいにおいてこのような唐突感なのかもしれない。それでいいのかどうかの議論は、今のところ聞いたことは無いが。
 また村上は、本来は死刑には反対する立場(冤罪などの問題もあるし)であるが、この事件の家族のことを考えると、それは言えない、と書く。寄稿の本来の意味はそこかもしれないな、となんとなく思う。死刑廃止論者であっても、(多くの思いの前に)これは仕方が無かったとはいえ、しかし死刑にしない方が、まだ事件のことが深く考えられるし、良かったかもしれない。しかしやっぱりあれだけのことだし、僕には言えない…、というスタイルなのだろうか。それは、誰に向けてのメッセージなのだろう。
 こういうのを読むと、やはり死刑廃止論者なら、言えないでは無く言うべきだろうと思う。こういう事件だからこそ、死刑廃止の論点にならないか。また、このような事件でなくとも、家族の前で死刑廃止論が言えないのであれば、それは死刑廃止論として弱いのではないか。また当然だが、被害者家族にあっても死刑廃止論者は居る筈である。だとすれば、それは単なる家族への配慮問題なのか。実際問題として死刑がある日本において、誰かが死刑廃止論を言うことで、法律が変わるのか。もちろん変わる可能性があるとして、しかし世論の大勢だから、前近代的な死刑が存続しているのか。そもそも世界の趨勢が死刑廃止の流れだとして、日本がそれを取る必要が本当にあるのか。
 僕自身は、日本という文化圏だからこそ死刑というものがあるのだと思う。冤罪で死刑はイカンと思うが、オウムの場合は当てはまらない議論だろう。死刑が残酷だからダメだというのはよく分からない。無期懲役の方が残酷にも思えるし。しかし死刑を執行する立場の人たちのためには、何か方法は無いかとは思う。いっそのこと募集してさせてもいいと思うが、好きでする人がいてもそれはそれで問題があるが。
 オウムに戻ると、今さらながら若かった人達が、今や高齢になりかかり死刑となった。これを二重の刑罰と思うか、軽いと思うか重いと思うか。何度でもいうが、どう思うというのが基本的には重要で、それは何故なのかがもっと重要だ。オウムに関してある程度冷めた感じの世論を思うのだが、その距離感こそが、何か時代の疲れのようなもののようにも思う。今でも反社会的な新興宗教などに、家族を奪われる人たちはいるのだろう。また、洗脳セミナーだって存在しているはずだ。もうそのようなものには染まるはずがないという人が増えると、そのような脅威が、またひょっこり顔を出すことになるのではないだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金持ちにひれ伏して楽しめ!   マダム・フローレンス 夢見るふたり

2018-08-02 | 映画

マダム・フローレンス 夢見るふたり/スティーブン・フリアーズ監督

 音痴の金持ち婦人の歌手物語。普通はそんなことには驚かないが、実話の映画化で、本当にレコードを出している歌手でもある婦人の物語である。最初は仲間内を呼んで、おおかた事情を知った者たちが笑いをこらえながらリサイタルを聞いていた。何しろ大変な金持ちらしく、一流の音楽家の指導を受け、立派な会場で歌を披露する。まったく事情を知らない人は、まさにキツネににつままれたような異常な笑いをこらえる苦しみを味わうことになるが、この夫人のおかげで職を得て、曲がりなりにも生活が成り立っていく立場の人間もいるのである。
 歌夫人の夫は、ちょっとプレイボーイで愛人がいる。歌夫人はそのことを薄々は気付いてはいる様子だ。しかし純粋に音楽にのめり込み、夫の表面的なのか分からないが、献身的な立ち振る舞いにも大変に満足している。歌うのが好きで、そうして本当はばれている、笑われていることに怯えながらも、歌う喜びを捨てることが出来ない。
 実は先にフランス映画の「偉大なるマルグリット」の方を観ていた。これもなかなかの傑作で、そういう作品を焼きましたようなものは観なくてもいいのではないかと思っていた。ところがこのように見返してみて思うのは、確かに同じ話ではあるものの、やはりずいぶん作りは違う。音痴に対するおかしさやサスペンスは英国の方がいくぶん大袈裟かもしれないが、物語の出来栄えや素晴らしさは、共にとてもよい。あまりにも偉大な実話がある所為で、現代的な味付けが実に見事に彩られる作品に仕上げられたようだ。
 もちろん両方お勧め。そうしてもちろん二つとも大いに楽しめるだろう。本当に人を動かすという偉大な歌手の力というのは、こういう人を指して言うのだろう。まあ、実際は金持ちにひれ伏す大衆の姿という事なんだろうけれど…。人間それでいいんですよ、たぶん。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする