六の宮の姫君/北村薫著(創元推理文庫)
芥川龍之介の作品に同名のものがある。私は卒論に芥川を選んだのだが、この作品についてバイトで出版社で働いている折に、文壇の大御所から「あれは玉突きだね。…いや、というよりキャッチボールだ」という謎の言葉を投げかけられる。この作品が書かれた背景に興味をもった私は、その執筆当時の芥川の交流のあった作家や作品を巡って、さまざまな文献にあたることになるのだった。
また円紫さんもこの作品の背景は当然知っていて、ちょっとしたヒントももらう。文学部出身の人たちが皆このように書肆探偵を日頃やっているのかどうは知らないが、ちょっと博識すぎる人たちばかりで呆れてしまう。これだけ本ばかり漁っていると、生活はどうなってしまうのか。読書というのは改めて害毒の多い試みだという事が、身につまされる作品になっている。まあ、楽しいのだから仕方ないが。もっとも僕自身はこのような作品背景にはそんなに興味がある訳では無い。いわばゴシップの類でもあって、それが面白いんじゃないか、という声もあるだろうけど、基本的には作品が面白ければいいとも思う。思い入れが強くなって、そればかりでは物足らない、という人がいて、このような探偵がなされている訳ではあるが、ネット社会にあるとはいえ、いまだに東京に住んでいないと、このような探偵は出来ないかもしれないな、という事も分かる。文学というのは、ある意味で一種の芸能だから、東京に住んでいなければ、楽しめない一面があるという事なのだろう。
謎を見つけるために読書を続けて、そうしてその謎の核心に近づいたときに、自分一人だけ大きな喜びがある。そういうたぐいのミステリというのは、一般的にはなかなか作品にしづらいのではないか。そういう意味でも見事な作品で、なるほど、このような読書の深みというのがあるんだという驚きもある。まったく凄いもので、このようなことを文学世界の人々は、多かれ少なかれ知っているという事なのだろうか。
本来は先生が生徒や学生にものを教えるという形では、このようなミステリのやり方はあったのかもしれないが、生徒自身がここまで成長していると、泳がせてもここまでたどり着けるという事かもしれない。そういう教え子が居たとしたら、先生というのは舞い上がってしまうのではなかろうか。優等生がかわいがられる理由がよく分かる作品ともいえて、よくできた学生は、私を真似て卒論を書いたらいいのではなかろうか。
実は過去にこれは読んでいたようにも思う。アマゾンに過去歴があるし、ところどころ記憶があった。しかしながらいつものようにたいした記憶力も無いので、楽しく読むことが出来た。そういう意味でも読み返しが可能な作品かもしれない。もちろん博覧強記の人以外のことだろうけれど。