顔のないヒトラーたち/ジュリオ・リッチャレッリ監督
ドイツ映画。ニュルンベルク裁判は割合知られていることと思うが、ドイツの敗戦後13年経過した後のアウシュビッツ裁判がドイツ人の手で行われていたことは、比較してそれほど知られていないのではないかと思う。
いわゆる戦争犯罪を自国民でどれだけ裁くことが出来るのか、という問題に正面から向き合って、時には向き合いすぎて混乱する話である。ナチス・ドイツの組織的な戦争犯罪という側面から考えると、誰もが何らかの形で戦争に加担していたわけで、いわば仕方のなかったという考えがある。しかし、それだけでは割り切れない残虐行為が見過ごされたままで良いのかという良心の問題もある。被害を受けて、その傷が癒えず苦しんでいる人も少なからずいる。終戦を機に、何らとがめられずに、普通の生活を送っている加害者が存在しているし、時には逃げ回っていて捕まえられることさえ困難になっている。法の立場で自国民を裁くという事に、この国の未来もかかっていたのかもしれない。
主人公の検察官は1930年生まれ(なんと僕の父と同い年だ)という事で、この大任を担うことになる。本人は戦時中ナチスに加担していない潔白さがある。しかしながら例えそうであっても、自分の家族や恋人の家族であっても、戦時中の立場を考えると、必ずしも潔白だとは言えない。捜査を進めれば進めるほど、本人は苦悩の中に放り出されることになってしまう。疑心暗鬼になり、さらにまわりの人間がすべて敵のようになり、さらに自分が裏切り行為をはたらいているような気にもなっていくのかもしれない。
東京裁判やニュンベルク裁判には、戦勝国の立ち場で一方的に裁く、いわば茶番劇的な要素が強かったが、たとえ戦争といえども、被害者が自国で生活しながら何も手を出せないことに向き合う司法の苦悩の姿が、そこにはある。自分の問題を自分で浄化できるのかという考え方もあったのかもしれない。戦争で仕方のなかったという事だけでは割り切れない犯罪行為が、そこには存在したのではなかったか。また数々の証言や証拠が、その時点であれば検証可能だったのではなかったか。
多少潔癖症過ぎるところが強調され過ぎているきらいはあったが、苦悩しながらも圧力に屈しない為に戦わなければならないこともあったのだろう。映画としては現代人の単純さがあるようにも思ったが、これは大変に困難な試みだったことは理解できた。おそらくそれでも、清算が出来ない問題は含まれている。敗戦国のみの苦悩で済んでよい問題なのかも疑問に思うし、見向きもしない西側諸国もある事だろう。戦争は終わったが、何らかの形で向き合う必要を感じている人たちには、このようなことから逃げてばかりは居られないだろう。難しい問題だからこそ、単に裁くというだけでなく、検証は行われなくてはならない。
面白い映画ではないが、戦後が終わらない訳もなんとなくわかるのではないか。責任を取るべき時期は既に逸しているとは思うものの、現代人としては観るべきものがあるのではなかろうか。