スパゲティ・ナポリタンの、あのノビている麺が好きだという人がいる。僕はノビた麺が特に旨いと思っている訳ではないが、言っていることは分かる。ナポリタンの名店といわれるような古い店には、茹でた麺を一晩置いて翌日に炒め直すところもあると聞いたことがある。ちょっとふやけた柔らかさを出すためらしい。そういう麺が求められているということもあるんだろう。繰り返すが、実際はアルデンテといわれるような歯ごたえの残るような麺の方が旨いはずなんだが、そんなナポリタンの旨さというのは、屈折しているものの、確かにある。それは懐かしさだけではなくて、そういうやわらかい麺を美味しく感じる味覚があるのだということだと思う。柔らかいうどんじゃなきゃ嫌だという人もいるし、柔らかいラーメンじゃなきゃ嫌だという人もいる。柔らかいちゃんぽんじゃなきゃ嫌だという話も聞いたことがある。体が弱いとか、そういうこともあるかもしれないが、麺の柔らかさは、ある時は旨さなのだ。
もっと極端な人がいて、カップラーメンやインスタント麺をしばらく放置して、ふやけきったものでもつい食ってしまうというような奴が、学生時代には居た。貧乏でもったいないという意識があるのは分かるが、これを旨いと言って食っていた。そんなはずはないはずだと思うのだが、実際に旨そうに食う。まずくても食うのなら分かるのだが、それなりにいけると本気で思っているらしかった。あれは既に麺ではないのではないか。
考えてみるとそいつは少しおかしくて、ポテトチップスの翌日の食べ残しのふやけたやつも旨いと言って食っていた。気の抜けたコーラやサイダーも飲んでいた。これは特に旨そうではなかったが…。
残りの人生が短くなると、もうそういうものを食って、さらに太ったりなんかすると嫌だな、と素直に思う。かといって、美食にふけるような気分でもないが。食うものはメザシでもなんでもいいんだが、ふやけたようなものは、出来れば食べたくない。ああいう不味いものは、若いころの特権で旨いのではなかったのかな、などとも思うのだ。いまだにあれが旨いのであれば、それはそれなりに羨ましいような気もしないではない。いや、勝手にやってくれればいいだけのことではあるのだが…。