カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

変態はわりに理屈っぽい   H・K変態仮面

2015-09-25 | 映画

H・K変態仮面/福田雄一監督

 正義感の強い刑事だった父と、SM女王さまの母との間に生まれた青年が、その血筋と正義感ゆえに、女性のパンティを顔面に被ることで快感に目覚め、その変態の力で超人化する。そうして街の正義のために戦う、というか、クラスメイトの女の子の気を引こうと奮闘するというか。
 設定や展開は、まあそうかな、という感じでそれなりに納得はいく。面白いと言えば面白いが、それは主人公を演じる鈴木亮平の誠実ながらマッチョな肉体という功績が大きい。要するにギャップの楽しさなのだが、そういう彼だからこその苦悩というのが全編にわたる見どころで、まあ、超人になれるんだからいいとして、しかし変態であることがばれるのも嫌だし、変態自体への自分の傾倒ぶりや戸惑いも楽しいところだ。
 最終的にはさらなる真正の変態があらわれ、危機に陥る。僕なんかはだからといって相手が強いならしょうがないじゃないかと思っていたのだが、その変態度の強さが、超人としての強さとは何の関係も無い、と気づいたら、強さを取り戻すというバカっぷりにはそれなりに感心した。変態が理屈で成り立っているところは、恐らく僕らに対するサービスのためだが、そうした変態への共感への呼び込みだとしたら、あまり納得させられてもいけないのかもしれない。もっともだから変態というのは実は紙一重の差に過ぎない現象だというのはよく分かるところで、ギャグだが啓蒙性もあるのかもしれない。もっともやはり表に出せないから苦悩が深く、さらにひょっとすると快感も深いとしたら、啓蒙があったところで相対的な数は増えないのかもしれない。それはそれでどうでもいいことではあるが…。
 しかしながらちょっと納得がいかないという部分も無いではない。変態どうしの戦いにおいては、変態技で攻められた方が快感が強まって、実は相手のサービスになってしまうのではなかろうか。お互いにサービスしあって昇天するというのであれば、それは大変にハッピーなはずである。しかし勝敗がついて、一方の変態が滅んでしまうのは、ちょっと展開としてどうなのだろう。敵対はしていたかもしれないが、得難い仲間でもあるはずだ。また実のところ共感しあっている部分だってあるはずだ。それは立ちはだかる恋があるということなのかもしれないが、常人には理解されない苦悩があるからこそ、変態は変態であり続けられるのではなかろうか。
 変態が蔓延して、もっと周りの人間が困ってしまったり、また、やはり変態が嫌悪に包まれて、正義なのに誰にも理解されないという展開がもう少しあっても良かったのではないか。そうであるから変態は苦悩しながらも快感が止まらないということの方が、僕としては楽しめたような気もする。変態でないヒーローだって、そのような超人である苦悩はたいして変わりが無い。だからこそヒーローはすべて変態の擬態のようなものである。そういうことがちゃんとわかるというのは、ギャグ映画にありながら貴重なことである。個人的に特におかしく盛り上がる作品ではないけれど、普通の感覚としてわりに良くできている作品なのではないだろうか。
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